第45話 重実、走る・弐

文字数 2,507文字

 帰城した重実は、すぐに家老の忠三郎を呼んだ。
「今から江戸に寄って信州に走る」
 「信州」と聞き、忠三郎は紘子に何か火急の事態が起こったのだと察する。
「紘子殿は……?」
 忠三郎が問うと、重実は焦りの滲んだ声で
「まだ何とも言えんが、引っ立てられたかもしれん」
 と答えた。
「何と……っ。ただ今馬を用意いたします」
 急な事に衝撃を受けながらも、忠三郎は馬を用意する。
「俺と入れ違いで勝徳が来たら、信州朝永の奉行所近くの宿で落ち合おうと伝えてくれ。従重には二十日程城を空ける故その間藩主名代を務めるようにと。それと、『あづま』という城下の蕎麦屋に千代という名の女将がいる。千代に、ひろの部屋を検めるよう上手く頼んでくれ」
「もしや、離縁状でございますか」
 重実は悔しそうに頷いた。
「ああ。あいつの手元にあるとは聞いていたが、それ以上の詳しい事は何も。ひろの姿が見えなくなった今、朝永の連中の手に渡ったのかどうかも確かめられん。もしも離縁状が見つかったら、お前の信の置ける家臣に頼んで届けさせてくれ。届かなければ……別の手を考える。とにかく頼んだ」
「承知しました」
 忠三郎から馬の手綱を受け取ると、重実は軽く唇を噛んだ後、眉根を寄せて視線を下げる。
「……すまんな、忠三郎。お前には苦労を掛ける」
 詫びた後馬に跨がる重実を見上げながら、忠三郎はふっと笑った。
「なに、今に始まった事ではございますまい。この北脇、とうに慣れております。殿、どうかお気を付けて」
「……行ってくる」
 重実は馬の腹を蹴り、江戸に向けて夜道を走り出した。

 その頃、江戸田邉家。
「今帰った」
 城での今日の役目を終えた親房が帰ると、妻の菜緒(なお)が玄関で迎えた。
「お疲れ様でございました。あの、あなた……」
 家に上がる親房に、菜緒が逡巡しながら切り出す。
「如何した?」
「お父上様がいらしております」
 菜緒の一言に親房は思わず足を止めて妻を振り返った。
「は? 父上が?」
 親房の実父である佐野瀬見守武貫(さの せみのかみ たけつら)は、最近長男に家督を譲り隠居していたが、譜代大名として雄藩と名高い藩の頂点にいた男だ。
 そのような「大物」が旗本に婿入りした末息子の屋敷に上がるなど、普通は考えられない事だ。
「分かった。急ぎ顔を出そう」

「父上、親房にございます」
 親房が屋敷の広間に入ると、上座には見知った父の姿があった。
 だが、親房はその様子に違和感を覚える。
(……随分痩せておられる。隠居されたとは聞いていたが、どこかお悪いのだろうか?)
「突然押し掛けてすまんな。父相手にそう恐縮するでない。手短に済ます故、これへ」
 武貫はやや窪んだ目の頭を指で押さえつつ、親房を近くに呼んだ。
 言われるがまま立ち上がり、距離を狭めて座った親房を見て、武貫は微かに笑みを浮かべる。
「暫く見ぬ間に良い顔になった。田邉の家に入り一家の主となった故か、立派になったものだ」
「……勿体なきお言葉にございます」
「だが……儂が其方の斯様な姿を見られるのも、今宵が最後かもしれん」
 物騒な一言に親房の胸がざわりと音を立てた。
「父上……?」
「医者の見立てによると、儂はもうそう長くはないらしい。次の桜を見られるかどうか……」
 にわかには信じられない告白に、親房は愕然とする。
「そ、それは真にございますか……そんな、過ぎたご冗談なのでは……」
 己に言い聞かせるように口走ってみるものの、目の前の痩せこけた父の姿が冗談ではないと物語っていた。
「儂がわざわざ冗談を言いにここまで来るか」
 どこか力無い笑い声を上げた後、武貫はふっと息を吐いて続ける。
「なに、人たる者遅かれ早かれ魂は浄土に帰るもの、己の寿命を儚んではおらん。息子たちも各々立派になった事だしな。ただ……ひとつ、心残りがある」
「心残り、でございますか?」
「うむ……」
 逡巡と後悔、そして覚悟……事を打ち明けるまでの僅かな間に、武貫の心には様々な感情が押し寄せていた。
 それらを呑み込んで、彼はゆっくりと切り出す。
「当時は良かれと思うて為した事であったが、儂がその任から外れた後、恐ろしい顛末を辿った出来事がある。元はご公儀からの命とはいえ、儂が取りなしたその一件でひとりの娘とその家族の人世が狂ってしもうたのだ。今頃はたしてその娘はどこでどうしているものか、生きているのか否かも分からん。詫びられるものならば、死ぬ前に会って詫びたいものだ……」
 武貫は息子に向かって頭を垂れた。
「儂はこの通りすっかり体が弱ってしまった。今からあてもなくその娘を捜す事は叶わん。そこで親房、儂の代わりにその娘の消息を追ってはくれまいか」
「私が、でございますか?」
「其方は江戸城に出入りする身、たとえ娘を見つけられずとも何らかの手掛かりを掴む事くらいは出来るやもしれぬ。無論、見つけられたとしてもそれまで儂が生きていられるかどうかは怪しいだろう。その娘とて、墓石と成り果てているやもしれぬ。だが、いずれにせよ儂の死後その娘の消息が明らかになったならば、儂が詫びていたと其方から伝えてもらいたい」
(あの父上が、息子に頭を下げるなど……)
 絶対的な権力と威厳で藩を率いてきた父が自分に縋る日が来るなど、親房にとってはにわかには信じ難い事だ。
(だが……父上らしいと言えばそうやもしれん)
 藩政に関する事と息子たちに対しては、父は一層厳格だった。
 ご公儀に対して忠実過ぎる嫌いもあったが、嘘や隠し事を嫌い、不正などもっての外という信念をそのまま体現したような人だった。
 そんな父であるから故に、命の期限を意識せざるを得なくなった今、己の過ちを精算するのになりふり構っていられないと思い至ったのだろう。
(私が動く事が父上への孝行になるならば……)
 親房は畳に手を付きお辞儀する。
「父上からの命とあれば、この親房に否やはございません」
「……恩に着る」
 武貫は皺の刻まれた目尻に涙を溜めながら、この後親房に詳細を聞かせた。
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