第17話 流れる川の一滴・壱

文字数 2,300文字

 木戸屋を追い出されてから数日。
 紘子は今日も変わらず長屋で子供たちに読み書きを教えている。
 部屋の端には羽織や長着が畳まれ、積み上げられていた。
 新しい職は未だ見つからず、紘子はとりあえず着物の修繕や仕立て直しの内職で僅かな収入を得ている。
「『得てしかな、見てしかな、と』……ああ、たき、今の『しかな』は、どういう意味か分かる?」
 竹取物語を書き取らせながら、紘子はたきに問題を出した。
 残念そうに首を横に振るたきに、紘子は
「『したいものだ』という意味よ。だから、『得てしかな』は『手に入れたいものだ』という事」
 と解説しながら、その横で絵巻物を広げ楽しげに漢字を書き取る子供たちの字体に直しを入れる。
 従重がくれた絵巻物には、動物の絵と共にその動物を表す漢字が書き込まれており、ただ教えられるままに書くよりも視覚に訴えてくる分幼い子供には喜ばれた。
「本当に、良い手本を頂いた……」
 感慨深げに眺めている紘子だったが、入口の戸を叩く者に気付き立ち上がる。
「何でございましょう……って、えっ?」
 何の気なしに戸を開けるとそこには従重が立っており、紘子は思わず声を上げた。
「紘子、敦盛最期を聞かせよ」
 紘子の背後から、子供たちが野次馬の如く集まり従重を覗く。
 横柄な口調と品の良い服装から従重がどこぞの偉い武士であろうと幼いながらに察したのか、子供たちの目は不安と怯えに揺れていた。
「あの……まだ子供故、どうかご容赦を……」
 下手をすれば無礼打ちされても文句の言えない子供たちの態度にはらはらする紘子だが、従重の方は然程気に障っていないようだ。
「構わん」
 従重は紘子を軽くあしらうと、彼女の背後に言葉を投げる。
「俺はその辺の旗本の次男だ。紘子に用があって来た」
 そして、ふっと紘子の耳元に顔を落とした。
「俺が藩主の弟である事は伏せておいた方が良かろう」
「……」
 囁かれた進言に無言で頷くと、紘子は子供たちを振り返る。
「こちらのお侍様がその絵巻物を下さったのよ。皆、お礼を言いなさい」
「おさむらいさま、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 紘子に命じられた子供たちは口々に礼を述べ、たどたどしい様子ながらも丁寧に頭を下げた。
(ふん、全く子供というものは馬鹿が付く程素直なものだな。だが……)
 子供たちの偽りない真っ直ぐな視線は、従重の胸の奥に不思議な高揚感をもたらす。
 彼の口角は自然と上向いていた。
「殊勝な童共だな、これからも励め」
(表裏のない者と接するのは、気分が良い)
 上機嫌を口元だけに抑え、従重は紘子に向き直る。
「さて紘子、絵巻物の礼を果たしてもらおうか。童共、お前たちの師が諳んじている敦盛最期、よくよく聞いて師に倣え。分かっておろうが、紘子……童共の前で恥はかけぬぞ」
「き……肝に銘じます」
 挑発的な笑みを浮かべる従重を、紘子は緊張の面持ちで長屋に迎え入れた。

 女性にしては低い紘子の声で儚げに綴られる敦盛最期に、従重は瞼を閉じ聞き入った。
 一節も違わずに最後まで暗唱しきった紘子がほっと息を吐くと、従重はゆっくりを瞼を開く。
「やはり良い。武士の最期だからこそ、荒々しさよりも侘しさの方が心に響く。己の心が洗われるとは、まさにこの事だな」
「あ、ありがとうございます……」
(こんな風に仰って頂けるなんて……)
 従重の言葉は紘子に安堵以上に喜びを与えた。
 ちょうどその時だ。
 紘子の敦盛最期を満足げに講評していた従重の手元に、何の拍子かひらりと半紙が舞い落ちる。
「何だこれは?」
 拾い上げた従重に、たきが血相を変えて頭を下げた。
「し、しつれいいたしました!」
「良い、頭を上げよ……童、よもやこれはお前が書いたのか?」
 半紙を見つめる従重の目は真剣そのものだ。
 たきは恐る恐る返事をする。
「はい……」
 従重は軽く目を見開き半紙とたきを交互に見つめた。
「……なかなかに達筆だな。童、名を申せ」
「た、たきといいます」
「名字は?」
「ありませ……あっ、ええと、ございません」
「左様か……」
 従重は半紙を持ったまま今度は紘子に問う。
「紘子、たきの親は何を生業としている?」
「小間物の行商と聞いております……」
「行商の娘か……」
 従重は渋い顔をしながら顎に手を当てた。
 そして、
「あの家は恐らく駄目だ、あっちは受けてくれるやも……」
 などとぶつぶつ独りごちた後、紘子を見て告げる。
「この、たきという童はなかなかに利口そうだ。城か、それが叶わずとも何処ぞの武家で取り立ててもらえないか心当たりに打診してやろう」
 従重からの信じ難い申し出に、紘子は唖然とした。
「えっ……本当に、そんな……」
(私でもたきを何処ぞの祐筆になんて絵空事に終わると諦めていたのに……この子の才が運を呼び寄せたに違いない……!)
「ただし、行商の娘では難しい。働くならば武家に養女に出し身分を得る必要がある。俺の遠縁で話を付けられそうな家があるにはあるが、問題はたきの親がそれを許すかどうかだ。上手くいけばたきの人生は様変わりするが、親元を離れる事になるのだからな。他家に養子に出るのは武家ではよくある事でも、町人には馴染みのない事であろう」
 従重は少し考えてから続ける。
「紘子、十日やる。まずはお前からたきの親に話してみよ。十日もあれば親も如何にするか決められよう」
「あ、ありがとうございますっ」
 期待や不安に胸が膨れ上がるのを感じながら、紘子はたきと共に従重に頭を下げた。
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