第7話 束の間の用心棒・後

文字数 3,240文字

 紘子の住む東町(あずまちょう)への帰り道、二人はせせらぐ小川の土手に腰を下ろした。
「固くならないうちに食うか」
 重之介は団子の包みを開け、二本あるうちの一本を紘子の口元に運ぶ。
「元々はお前に食わせたくて買おうとしたもんだ、ほら」
 紘子は咄嗟に首を後ろに引いた。
「いいえ、これは……」
「いいから」
 団子をずいと出され、紘子はやむにやまれず串を取る。
「いただきます」
 一口齧ると、軽く塩気の利いた蓬の匂いがした。
「塩漬けした蓬……?」
「お、気付いたか。美味いだろ?」
「はい」
 紘子の口元が軽く緩んだのを見て、重之介が徐ろに口を開く。
「この団子、お袋の好物でな」
「お母上様の……?」
「ああ。もう大分前に亡くなったが」
「そうだったんですか……」
 紘子はじっと手元の団子を見つめた後、
「今日は、大切な思い出の団子を私にご馳走して下さったのですね」
 と返した。
「そんな大層なもんじゃねぇよ」
 重之介はカラカラと笑った後、ふっと目を優しげに細める。
「あづまのおばちゃんに聞いたんだが、お前、長屋で子供らに読み書きやそろばんを教えてるんだって?それも、金を取らずに」
「……はい」
「若いおなごの身空で大したもんだよ。余程強い志を持ってるんだろうな」
「いいえ、そんな……」
 「志」などという大仰な言葉に後ろめたさを覚え、紘子はかぶりを振って俯いた。
 全てを奪われ、最後に残ったものが「学問」だった……紘子にとってはそれだけの事である。
 長屋に住む者は大半が然程裕福ではない者ばかりだ。
 商人は居宅を構えられるようなものではなく行商人ばかり、職人とて弟子を幾人も抱えるような大家の者はいない。
 あとは日銭を稼ぐ浪人といったところだ。
 幕府によって強固な身分制を敷かれている世で、そんな身分の者たちの生活が学問を身に付けたところで変わる事など期待は出来ない。
(ただ、私の中に最後に残ったものを誰かに託せたらと……いつどうなるか分からない身だから)
「……私の我が儘で行っている事です」
(読み書きを教えるのが「我が儘」か……)
 紘子の答えに嘘はなさそうだが、重之介にはどうも引っ掛かった。
(やりたいからやっている、という事なのか、それとも他に理由があるのか……今のこいつの口から聞くと妙に嫌な響きだ。まるで己の死期を悟っているかのように聞こえてならないな。何か、余程の思いをしたのだろうが……)
 重之介の中に、「欲」が芽生える。
(武士たる者、あまり人様の抱えるもんを暴こうとするのはよろしくないが……俺はこいつを知りたい。その代償としてなら、俺自身の事も少しは明かしておきたい……いや、違うな。俺は知ってほしいんだ、俺自身の事を、こいつに)
 何故紘子に対してそんな感情が働くのか、答えは何となく見えそうな気もしたが、重之介は無意識にそれ以上の己への追及を避け、抱いた欲にだけ目を向けた。 
「後から聞いた話だが、親父の所に嫁いだ頃、お袋は字が読めなかったんだと。元々手習いに通える程の暮らしぶりじゃなかったらしくてな。嫁いでからえらく苦労して字を覚えたらしい。もし……お前みたいなのがお袋の故郷にいたら、お袋は早くに読み書きを心得ていたんだろうな。なぁ、お前は一体どこで読み書きを習ったんだ?」
「私は……」
 決して口にすまいと思ってきた己自身の事だというのに、重之介には何故かほんの少しなら打ち明けてもよいのではないかという気になって、紘子は
「……父と、母に教わりました」
 とだけ答えた。
「へぇ、両親とも読み書きに長けているとは、紘子の家は元々武家か?」
「……」
 しかし、その問いには答えられず、紘子はつい重之介から目を逸らす。
(……図星か)
 察した事には触れず、重之介は同じ口調で続けた。
「すまんすまん、つい気になってな。同じ穴の狢を探したがるのは人の悪い性だ」
「いいえ、どのみちもう両親は亡くなっておりますし……」
「……そうなのか。では、俺と一緒だな」
「重之介様も……ですか?」
 目を丸くする紘子に重之介は軽く頷いてみせる。
「ああ。お袋が亡くなってから、親父もあっさりな。俺がまだ十五の時だ」
「私も……」
「ん?」
「私も、十五の時に親を亡くしました……」
「何だ、そんなところまで一緒とは。つくづく縁があるな、俺たちは」
 重之介はそう言って淡く微笑んでみるが、紘子の方は複雑な表情で俯いたままだ。
(このような事まで話すつもりではなかったのに……この方は悪いお人ではないだろうけれど、何がきっかけで私の素性が知れ渡るか分からない。だけれども、何故(なにゆえ)だろう……この方には、嘘を吐きたくない。いいえ、嘘を吐きたくないのではなくて、何かこう……)
 紘子の胸の内など知らず、重之介は秘かに息を吐く。
(こいつの中じゃ、まだ親の死に踏ん切りが付いてねぇのかもな……同じ(よわい)で親を亡くしたって言っても、こっちはもう六年も前だが、ひろはどう見ても俺より若い。まだ二、三年てとこか)
 そんな事を考えながら。

 ふと、小川から冷たい風が吹き上がった。
 気付けば辺りは薄暗くなり始め、商家の店先では行燈の火が灯り始めている。
「おっと、随分引き止めちまったな。ここからだと東町長屋は……すぐそこか。ほら、行くぞ」
 先に立ち上がった重之介の言葉に紘子は動揺した。
「いいえっ、本当にすぐそこですので、一人で帰れます!」
「何言ってる。俺は今日、お前に用心棒として雇われた。雇い主の無事を確認しなければ帰るに帰れねぇよ」
 そう言って歩き出す重之介を紘子が追い掛けようとした時。
「あっ!」
 土手の草に足を取られ、紘子がつんのめる。
 振り向いた重之介は咄嗟に腕を伸ばし、紘子を抱き止めた。
「……」
(何だ、この感覚は……?)
 まるで時が止まったかのような錯覚に襲われ、重之介は困惑する。
 別の「欲」――知りたいという「欲」に近いようで遠い、そんな「欲」――がむくむくと頭をもたげてくるような気さえした。
 困惑しているのは紘子も同じだ。
「……っ」
 頭ではすぐに離れようと思っている筈なのに、何故か体は動かない。
 むしろこのままでいたい……まるで体がそう言っているかのように。

 数瞬の無言の後、先に理性を取り戻したのは重之介の方だった。
「ほら、言わんこっちゃない……大事ないか?」
 重之介の声に、紘子は弾かれたように体を離す。
「は、はい……」
「とりあえず、長屋の入口までは送るから」
 恥ずかしさからだろうか、紘子はなかなか視線を合わせない。
 重之介も妙な気まずさを感じてしまい、彼女の一歩先を歩き出した。

 紘子の住む東町長屋は本当に「すぐそこ」で、小路一本入っただけで辿り着いた。
「今日は、本当にありがとうございました」
 平静を装って礼を言う紘子に、重之介も
「ああ。では、またな」
 といつもの口調で返し、背を向ける。
 だが……。
(あ……)
 一歩ずつ遠ざかっていく重之介の背中を見ているだけで、紘子は胸が締めつけられるように苦しくなった。
「あ、あのっ」
 苦しさを自覚した時には、既に重之介を呼び止めていた。
「ん?」
(私は、何故……?)
 振り向いた重之介に、紘子はどこか落ち着かない様子で言葉を探す。
「あの、その……あづまには、向こう五日ほど行かないつもりです。他の勤めと、子供たちの手習いがあるので……」
 重之介は紘子の言葉の真意を懸命に推し量った。
(これは、わざわざ俺に「あづまにいない日」を教えている……という事だよな?要するに、自分がいる日に来てくれと……そういう事なのか?)
 結局答えは見つからない。
「そうか、分かった」
 そう明るく返す事しか出来ず、重之介は長屋と通りを隔てる扉を開けて去っていった。
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