第61話 三途の飯屋・弐

文字数 1,495文字

(ここは一体……?)
 気付くと紘子は独り濃い霧の中に立っていた。
(私はどうしたのだろうか? 何故このような所に……)
 己が何者かは分かっているが、その身に何が起こったのかが皆目思い出せない。
 何故か足元に感覚はなく、まるで宙に浮いているかのような気さえする。
 途方に暮れて立ち尽くしていると、霧が次第に晴れていった。
 すると、微かに燻る霧の中に、一軒の古びた飯屋が現れる。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
 紘子が思い切って飯屋の暖簾をくぐると、小上がりの先にある畳の間に一組の男女が座っていた。
 二人の顔を見た途端、紘子の中に急激に熱いものがこみ上げてくる。
「父上、母上!」
 小上がりの先にいるのは、今は亡き紘子の両親。
 心から敬愛してやまなかった大切な二人。
 だが、両親は紘子を見ても何も言わないばかりか、微笑みさえ見せてくれない。
(……当然だ。父上も母上も、私のせいで家を潰され命を奪われたのだ。さぞ恨めしいに違いない。けれど、私は……)
 紘子は小上がりの手前で土下座した。
(私は、謝りたかった……っ。たとえお許し頂けなくとも、父上と母上に一言詫びたかった……!)
「父上、母上っ、不甲斐ない娘で面目の次第もございません……! お家を守れなかったばかりか、父上と母上をあのような目に……申し訳ございません……!」
 ぼろぼろと涙を零しながら頭を垂れる紘子に穏やかな声が降ってきたのは、紘子がそう謝った直後だ。
「お前が謝る事は何もない」
「……父上?」
 紘子が顔を上げると、父はまるで痛みを堪えるかのような表情で彼女の名を呼ぶ。
「みき。私の力が及ばなかったがために、お前に辛い思いをさせた。許せ」
「滅相もございません! 父上は、私の幸を願って懸命にお働き下さったではありませんか!」
 紘子は矢も盾もたまらず小上がりに上り父の手を取ろうとした。
 しかし……。
「なりません、みき!」
 父の横から母がぴしゃりと言い放つ。
 紘子はびくっとしてその場で硬直した。
「良いですか、みき。あなたはまだこちらに来てはなりません。あなたは、まだ為すべき事を為しておりません」
「私の、為すべき事……?」
「己に残された生を、全うしましたか?」
 母の問いに、紘子ははっと息を呑む。
 何かとても大切な事を忘れてしまっているような気がして、紘子は何度も母の言葉を心の中で繰り返した。
(生を、全うする……生を……)
「生ある限り、精一杯楽しんで生きるのではなかったのですか?」
「あっ……」
(そうだ、私は精一杯楽しみたいと、そう思っていた筈……だけれど、私は何故そう思っていたのだろうか?)
 忘れてはいけない事の筈なのに、何故かはっきりと思い出せない。
 困惑するばかりの紘子に、父が微笑む。
「みき、お前はもう分かっている筈だ。お前が取るべき手は、私の手ではないと。お前の手を引くのは、私ではない」
 母も温かく目を細めた。
「この飯屋の裏手にお行きなさい」
「裏手に……?」
「ああ、行けば分かる。さあ、急ぎなさい」
 母に続いて父にも促され、紘子は立ち上がる。
「父上、母上、たとえ夢でも、またお目にかかれてみきは嬉しゅうございました……では」
 丁寧にお辞儀をして踵を返す紘子に、父が告げた。
「あの若殿は見所がある。あの時吉住を殴り飛ばそうものなら、私はここでお前の手を引いた。だが、あれは堪えた。あの若殿とならば、必ずや幸せに暮らせよう」
「父上、それはどなたの事でございますか?」
 紘子は慌てて振り向いたが、飯屋の中には既に両親の姿はない。
(父上、母上……)
 寂しさに軋む胸にきゅっと手を当てながら、紘子は飯屋の裏手に回った。
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