第36話 幹子の昔語り・弐
文字数 1,401文字
あれは、私が十四になる少し前。
父上の元にご公儀から書状が届いた。
内容は信州朝永藩主である大名、鬼頭家への私の輿入れを強く勧めるものだったと後から聞いた。
その書状が届いてからというもの、両親の顔からは笑顔がめっきり減ってしまった。
それから約半年、父上と鬼頭家はてはご公儀の間で如何な攻防があったかは私の知るところではないが、結局私は鬼頭家へ嫁ぐ事となった。
旗本の父上が大名家とご公儀相手に決死の思いで勝ち取った条件は、私の乳母を私に同行させ生涯仕えさせる事と、将来私に男児が二人以上生まれればそのうちの一人を八束の跡取りとする事の二つだけだったそうだ。
私を含め八束の家では誰ひとり喜ばない婚姻。
八束家に仕える武士の方の中には、納得出来ないと言って切腹覚悟でご公儀に訴えようとする方もいて、父上が必死でなだめていた。
女中さんたちも、まるで今生の別れかとばかりに毎日入れ替わり立ち替わり私に会いに来てくれた。
私は両親だけでなく、周りの方々にこんなにも愛されていた……それを改めて悟った時、私の覚悟も決まった。
輿入れが上手くいかずご公儀の怒りを買うことにでもなれば、旗本家の一つや二つ容易く取り潰されよう。
そうなれば両親ばかりかこの方々までも路頭に迷ってしまうのだ。
与えられた愛情に応えるのは、きっと今だと。
両親は精一杯の贅沢で私の嫁入り道具を揃えて下さった。
そして、出立の日の朝。
「イネ、貴女だけが頼りなのです。どうか、どうかみきを支えてやって下さりませ」
母上は私の乳母であるイネの手をぎゅっと握りながら、何度もそう繰り返していた。
「お方様、姫様の事はこのイネが必ずやお支えいたします。それに、お城には入れませんが私の倅 も僧として朝永近くのお寺に入る事になっております。私で至らなければ倅も力になってくれましょう」
イネは元々涙もろい人で、この時もぼろぼろと涙を零していた。
「みき、みき……」
続いて母上は何度も私の名を呼びながら手を取った。
「みき……万に一つ、貴女の尊厳が冒されるような事になろうとも、貴女の才と培った知恵は何人にも奪われはしないのです。どうか、どうかそれだけは忘れないで……」
「母上……」
気を抜けば溢れ出てしまいそうな涙を私は懸命に堪えていたけれど、この後俯いた母上の足元にぽつりぽつりと雫が落ちるのを見たら、もう耐えられなかった。
感情を剥き出しにした事のない母上が見せた、初めての涙。
それがどれ程母上の心の痛みを表しているのかが分かってしまったから。
「母上っ、母上っ!!」
稚児のように私は母上にしがみついたけれど、幼かった頃はいつも見上げていた母上をいつの間にか僅かに見下ろす程に私の背丈は伸びていて……。
ふと、もう甘えてはいけないと私は母上から離れた。
「父上、母上、これまで大切にお育て頂き、ありがとうございました。みきは、父上と母上の子として生まれて、これ以上ない程幸せにございました。八束幹子の名を、みきは生涯の誇りとして朝永の地でも生きてまいります」
両親への最後の挨拶は、きっと涙声で上手く言えてはいなかっただろう。
けれど、父上はまだあどけない娘の精一杯の覚悟を感じ取って下さったのだろう、
「みき、息災で」
と、その一言だけを返して下さった。
父上の元にご公儀から書状が届いた。
内容は信州朝永藩主である大名、鬼頭家への私の輿入れを強く勧めるものだったと後から聞いた。
その書状が届いてからというもの、両親の顔からは笑顔がめっきり減ってしまった。
それから約半年、父上と鬼頭家はてはご公儀の間で如何な攻防があったかは私の知るところではないが、結局私は鬼頭家へ嫁ぐ事となった。
旗本の父上が大名家とご公儀相手に決死の思いで勝ち取った条件は、私の乳母を私に同行させ生涯仕えさせる事と、将来私に男児が二人以上生まれればそのうちの一人を八束の跡取りとする事の二つだけだったそうだ。
私を含め八束の家では誰ひとり喜ばない婚姻。
八束家に仕える武士の方の中には、納得出来ないと言って切腹覚悟でご公儀に訴えようとする方もいて、父上が必死でなだめていた。
女中さんたちも、まるで今生の別れかとばかりに毎日入れ替わり立ち替わり私に会いに来てくれた。
私は両親だけでなく、周りの方々にこんなにも愛されていた……それを改めて悟った時、私の覚悟も決まった。
輿入れが上手くいかずご公儀の怒りを買うことにでもなれば、旗本家の一つや二つ容易く取り潰されよう。
そうなれば両親ばかりかこの方々までも路頭に迷ってしまうのだ。
与えられた愛情に応えるのは、きっと今だと。
両親は精一杯の贅沢で私の嫁入り道具を揃えて下さった。
そして、出立の日の朝。
「イネ、貴女だけが頼りなのです。どうか、どうかみきを支えてやって下さりませ」
母上は私の乳母であるイネの手をぎゅっと握りながら、何度もそう繰り返していた。
「お方様、姫様の事はこのイネが必ずやお支えいたします。それに、お城には入れませんが私の
イネは元々涙もろい人で、この時もぼろぼろと涙を零していた。
「みき、みき……」
続いて母上は何度も私の名を呼びながら手を取った。
「みき……万に一つ、貴女の尊厳が冒されるような事になろうとも、貴女の才と培った知恵は何人にも奪われはしないのです。どうか、どうかそれだけは忘れないで……」
「母上……」
気を抜けば溢れ出てしまいそうな涙を私は懸命に堪えていたけれど、この後俯いた母上の足元にぽつりぽつりと雫が落ちるのを見たら、もう耐えられなかった。
感情を剥き出しにした事のない母上が見せた、初めての涙。
それがどれ程母上の心の痛みを表しているのかが分かってしまったから。
「母上っ、母上っ!!」
稚児のように私は母上にしがみついたけれど、幼かった頃はいつも見上げていた母上をいつの間にか僅かに見下ろす程に私の背丈は伸びていて……。
ふと、もう甘えてはいけないと私は母上から離れた。
「父上、母上、これまで大切にお育て頂き、ありがとうございました。みきは、父上と母上の子として生まれて、これ以上ない程幸せにございました。八束幹子の名を、みきは生涯の誇りとして朝永の地でも生きてまいります」
両親への最後の挨拶は、きっと涙声で上手く言えてはいなかっただろう。
けれど、父上はまだあどけない娘の精一杯の覚悟を感じ取って下さったのだろう、
「みき、息災で」
と、その一言だけを返して下さった。