第53話 白洲の逆転劇・壱

文字数 2,598文字

 翌朝、重実と親房は旧朝永藩の奉行所に顔を出した。
 現在は松代藩の管轄下にあるものの、奉行は旧朝永の頃から変わらぬという。
 つまりは、元家老である吉住の息が掛かった者であってもおかしくはないという事だ。
「旧朝永藩主鬼頭貞臣殺しの下手人を捕らえたと聞いた。近く裁きが開かれる頃合いであろうと江戸でも噂になり、裁きを見届け報せるようご公儀より命じられて参った」
 親房は重実を後方に控えさせながら奉行に申しつけ、懐から一通の書状を取り出して奉行に渡す。
「これは老中松平伊豆守様からの書状である」
「ろ、老中様から……?」
 奉行は震える手で書状を受け取った。
「て、『天地神明に誓い、正しき沙汰を下すよう』……」
 書状の中の一文を口にし、奉行は微かに目を泳がせる。
(ご家老の仰るままにすればよいと言われているが、老中様からの命となると……)
 狼狽を押し隠す奉行を、重実は親房の後ろから冷めた目で見つめた。
(成程、こいつも一枚噛んでやがるな。ここはまさに四面楚歌というわけか。俺が身一つで乗り込んでいたらどうなっていたか……田邉殿には感謝してもしきれんな)
 相手に江戸幕府の看板を背負われては取り潰された元田舎小藩に勝ち目はない。
 奉行はやむなく親房とその付き人――重実――を白洲前の畳敷きの間に通した。

 やがて、白洲の筵に吉住とその手下らしき浪人が数人並んで腰を下ろす。
「恐れながらお奉行様、そちらの方々は……」
 恭しく訊ねる吉住に、奉行はどこか気まずい様子で
「此度の裁き、大名殺しの裁きとあってご公儀もひどく関心を持たれているとの事。顛末を見届けご公儀に報告するため遠路はるばるおいでになったとの事だ」
 と答えた。
「それはそれは……」
 吉住は親房をちらりと見た後、その視線を重実の前で止めた。
(はて、清平のどら息子に似ているような気がしなくもないが……まるで別人、あの男ではない)
 吉住はふっと息を漏らし奉行に視線を戻す。
 吉住に顔を知られていない事は重実にとっては幸いだったが、勘の鋭い吉住ならば重実が従重の兄である事にいつ気付くとも知れない。
 重実はさりげなく顔を俯けやり過ごした。

「それでは、裁きを始める」
 奉行が声を上げると、木戸が開き「下手人」が入ってきた……が。
(あれが……ひろ、だと……?)
 その入場はあまりに異質なものだ。
 縄で後ろ手に縛られた人間が、まるで石材でも運ばれるかのようにずるずると引きずられて入ってきたのだ。
 髪は賤民のざんぎり頭に近く、一瞥しただけでは男か女かも見分けが付かない。
 辛うじて腰の辺りのくびれが女性だという事を示しているが、その者を紘子だと受け入れる事に重実は強い抵抗を覚えた。
 女には自力で動く力もろくにないらしく、牢番の男が無理やり白洲の筵に蹴って座らせ、振り乱れた短い髪の毛を鷲掴んでその頭を上げる。
 あまりに酷い扱いと女の姿を見た重実は思わず身を乗り出そうとしたが、親房が彼の手首を強く掴んで制止した。
『堪えろ! こんなところでボロを出すな……落ち着け』 
 親房は周りに聞こえないよう重実に囁く。
「……っ」
 重実は怒りを堪えながらさりげなく座り直した。

 顔を見てようやく女が間違いなく紘子だと重実は認めた。
 しかし、両足の甲には深い刺し傷があり、甲から膝下にかけ乾いた血で所々赤黒く染まっている。
 加えて激しく殴打されたのだろうか、右の額には血がこびりつき、右目も腫れ上がっていてその瞼は全く開いていない。
 この様子では、着物に隠れた体もどうなっているか分かったものではない。
 生きているのか死んでいるのかさえ分からない程の有様に、重実は胸を抉られるような心地がした。

 そんな重実の心中などつゆ知らず、奉行は裁きを始める。
「その方、名を名乗れ」
 奉行が紘子に声を上げた。
 だが、紘子は名乗るどころか
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
 と掠れた声で返す。
「女、名を訊ねておる」
 奉行が再度問うても、紘子は
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
 としか言わない。
「何とふてぶてしい……お奉行様、これが鬼頭幹子の本性にござ……」
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
 吉住が大仰に嫌悪感を見せながら奉行に訴えるその言葉の最後を待たず、紘子はまた同じ一言を繰り返した。
(ひろ……一体どうした?)
 重実は不安に駆られ親房と視線を交わすが、親房も訳が分からぬといった様子で小さく首を傾げる。
「もう良い。では旧朝永藩元家老吉住是直、この女が鬼頭幹子に相違ないか?」
 奉行は親房と重実の方をちらちらと気にしながら、吉住に確認した。
「相違ございません」
 吉住は誰にも見えないよう一瞬口元を歪ませた後、面に真顔を貼り付け答える。
「吉住よ、この鬼頭幹子が前朝永藩主鬼頭貞臣の妻にして、夫を殺……」
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
 奉行はまだ吉住への質問の最中で、紘子は呼ばれてすらいないのに同じ一言を発した。
(いよいよおかしいぞ……ひろの様子が、おかしい……)
 重実は己の呼吸が乱れるのを自覚したが、それでも今はまだ堪えて裁きの成り行きを見守るしかない。
「牢番、暫し女を黙らせろ」
 奉行が忌々しげに命ずると、牢番が紘子の脇腹を蹴った。
 短い呻き声の後、紘子は余計にぐったりとし、辛うじてうすら開いていた左目も閉じてしまう。
(あの野郎……っ!)
 重実の奥歯が鳴ったが、それに気付いたのは親房だけだった。
 親房は「堪えろ」とばかりに重実に目で訴える。

「改めて訊く。吉住よ、この女が下手人であるという証はあるのか?」
 奉行に問われ、吉住はわざとらしく頭を下げた。
「ははぁ。当時鬼頭様のご遺体の傍にありました簪を、既に証の品として奉行所に届け出ております」
 吉住の言葉を合図に、同心らしき者が小さな布包みを奉行の前に差し出す。
「成程、これがそこの鬼頭幹子の簪に違いないと」
 簪を見た奉行はこくこくと頷きながらそう言った。

 まるで用意された筋書き通りに進んでいく裁きに、重実の焦りと怒りは募る一方だ。
(駄目だ、もう我慢出来ない……っ!)
 このままでは紘子の沙汰が決められてしまうと感じ、重実は身を乗り出す。
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