第76話 出立

文字数 3,127文字

 客間に入った重実を見て、三木助と小平次は目を丸くした。
「殿、御荷物の中にそのような羽織はなかったかと……」
 峰澤にて重実の荷造りを手伝った三木助は恐る恐る尋ねる。
 重実は口元を緩ませた。
「どうだ、いいだろう?」
 三木助と小平次は訳が分からず硬直するが、事情を知るイネだけは目を潤ませ紘子を見上げる。
「姫様、間に合ったのでございますねぇ……ああ、何とお上手な……」
「……」
(だいぶ失態を犯したが……)
 紘子はいたたまれない面持ちでちらりと横の重実の方を向いた。
 重実はまるで「黙っておけ」とでも言わんばかりに微笑むと、イネに声を掛ける。
「これを貰ってようやくお前が俺をここに留め置こうとした真意が分かったよ。全く、一本取られた」
「まあ、この婆がお殿様から一本取ってしまいましたか」
 イネの冗談に誰からともなく笑い声が上がり空気が和んだところで、重実は紘子に三木助を紹介した。
「そっちにいるのはさっき話した小平次で、こいつは小平次の兄で三木助……忠三郎の嫡男だ」
 三木助はさっと居住まいを正し名乗りを上げる。
「お初にお目に掛かります。私、峰澤藩筆頭家老北脇忠三郎が嫡男、三木助にございます」
 紘子はゆっくりとその場に正座し、頭を下げた。
「紘子でございます」
 三木助はきょとんとして重実を見る。
(恐れながら、御名は八束幹子様ではないのでございますか?)
(……そういうことにしておけ)
 二人の間で交わされた視線にそうしたやり取りが乗っていたかどうかはさておき。
(そうか……)
 重実は悟った。
 他人がどう呼ぼうと、己にどういう身分が付き纏おうと、紘子には八束幹子として生きる気はないということを。
 無論、世はそれを許さぬだろう。
 まして、大名の妻になるなら相応の身分は必要だ。
 既に家が潰れたとはいえ八束幹子という名があれば一万石程度の大名家への輿入れに支障はないが、身分のないただの町娘では公儀の許しを得るのも厳しいだろう。
(さて……ひろの気持ちを慮るならば何か手を考えんとな。だが、それより――)
 重実は紘子の横に片膝を着いた。
「そろそろ発とう。日が暮れる前に宿に入らんとな」
(――今は手放しにひろと過ごす時を楽しみたい。やっとこいつと並んで歩けるようになったんだから)
 差し出す手に、紘子は僅かに視線を彷徨わせながら細い指先を乗せる。
 そのはにかんだ仕草がまた重実に甘く刺さったが、重実は静かに息を吐いて誤魔化した。
(これは……千本打ち込みよりもきつい忍耐が求められるな……)

 ひととおりの挨拶を済ませ、一行は離れの玄関を出る。
 小平次は門の先に繋いである馬を用意しにひと足先に行ったが、重実に付き随う三木助は内心焦れていた。
 紘子の歩みがあまりに遅いからだ。
(馬を用意しているとはいえ、この調子では先が思いやられる……籠を用意すべきだったかもしれないな。殿はどうお思いだろうか。殿さえ良ければどこかで籠を手配するのも……)
 そんな事を考えながら重実の様子を窺い見るが、重実は何とも穏やかな顔で隣の紘子を見つめている。
(ああ、殿は完全に舞い上がっておられる……)
 先の道中のことなど何も考えていないようにさえ見えてしまう重実に三木助は益々頭を抱えた。
 重実はそんな三木助の焦燥など歯牙にも掛けていない様子だが……。
(もっと急がなければ……っ)
 紘子は三木助の視線を背に感じ足を速める。
 自身でも気付かぬうちに、随分前から紘子は他人の、特に男性の抱く負の感情を敏感に感じ取るようになっていた。
 原因はやはり鬼頭と吉住だろう。
 多感な年頃に受け続けた陵辱のせいで、本能が相手の攻撃的感情を察知するようになったと思われる。
 それ故に紘子の頭に触れる時の重実の「心の乱れ」にも気付けたのだが、当の紘子はそうした己の歪さを自覚してはいない。
 とはいえ、今の紘子にとって三木助の焦りはちくちくと背に刺さるものだった。
 頭の中には普通に歩くイメージがあるのに、体は思うように動いてくれない。
 形は違えど、イメージと実際の身のこなしの乖離を上手く埋められず思うように動けないという状況はいつの世の人も体験するものだろう。
「あっ」
 案の定紘子は敷石の端につま先を引っ掛け体勢を崩した。
 隣の重実が咄嗟に腕を伸ばし支えなければ、今頃敷石にその身を打ち付けていたに違いない。
「ひろ!」
 思いの外切羽詰まった声色の重実に、紘子の方が驚く。
「はっ、はい……」
 重実はじっと観察するように紘子の顔を覗き込んだ。
「如何した? 少々息が乱れているようだが、どこか具合でも……」
「いいえ」
(ただ躓いただけだというのに、重実様はこんなに心配そうな顔をして……)
 紘子はふるふるっと急いで首を横に振る。
「気が逸って少々急いてしまっただけです」
「そうか……」
 重実はさりげなく後方の三木助やイネを見やった。
(イネは相変わらずだ、ひろの一挙一動にはらはらしているようだが、それ自体はひろの重荷にはなっていない。が、三木助は苛立ちが顔に出ているな……まぁ、あいつの性根を考えれば仕方ないか)
「三木助、すまんが先に行って小平次の様子を見てくれ。あいつ一人に馬を任せるのは些か不安だ」
「承知しました!」
 目が合うなりそう命じられた三木助は、重実の真意に気付くことなく門の外へと駆けていった。

 三木助の背中が門の向こうに消えると、重実は小さく息を吐き
「すまんな」
 と紘子に呟く。
「あれは父親の忠三郎に似て兎角真面目で勤勉、これ以上ない程信の置ける奴なんだが……まだ若い故か物事を柔軟に考えられなくてな、どうも頭が固い。忠三郎が此度の供に三木助を押し付けてきたのも、あいつの見聞を広めてもう少し柔い頭にしてやりたい故だろう。だがな、ひろ……」
 重実は、杖を握る紘子の手を大きな掌できゅっと包んだ。
「何も焦ることはない。俺たちは、俺たちなりに歩めばいい」
「……っ」
(どうしよう……言葉が出ない……私は何と返せばいいのだろう……私は何故、こんなにも……)
 重実の言わんとしていることが、その想いがどっと流れ込んできて、紘子は感情の整理が追いつかない。
 何か懸命に言葉を探しているような紘子の頬に、重実のもう片方の掌が触れる。
「生きているだけで奇跡と言われる程の深手を負っていたお前が、今やこうして俺と共に歩んでいる。俺はそれだけで……」
 ふと、必死に竹取物語を繰り返した時の情景が重実の脳裏に過ぎった。
(駄目だな……あの時のことを思い出すと、いまだに恐ろしい)
 紘子のいない日常を想像するのも、この先紘子にもしものことがあったらと考えるのも、重実にとっては恐怖でしかない。
「俺たちはもう奇跡以上のものを手にしているんだ。この上贅沢を言おうものなら、いよいよ神罰でも下る」
 あえて冗談めいた口調で言ってみた時には、紘子の頬に添えられた掌は無意識に頭巾の上に乗っていた。
(重実様……)
 紘子は一度唇を引き結んだ後、にっこりと笑ってみせる。
「はい、私たちなりの歩みで」
「ああ、それでいい」

(重実様は「俺たちなりに」と仰って下さった……「ついてこい」でも、「お前なりに」でもなく。私が如何な状態であっても、この方は私と共に、私の隣にいて下さるおつもりなのだ。私はきっと、世にも稀有な殿方に巡り会えたのかもしれない。しかも、その殿方にこんなに大切に想って頂けている……何と幸せなことなのだろう。私も、この気持ちを、想いを、素直にこの方に捧げたい。貴方様が誰よりも大切だと、貴方様のお心を守りたいと、人生をかけて目一杯にお伝えしていきたい……)
 再び歩き出した重実をさりげなく横目で窺いながら、紘子はひとり決意を新たにした。
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