第75話 意外な一面・参

文字数 2,578文字

 羽織を着たいと言う重実に笑顔で返事した紘子だったが……。

 直後、その笑顔が凍りつく。
「ひろ……これは……」
 重実の右手が袖口から出てこない。
「し、失礼いたします!」
 慌てて確認してみると、あろうことか右の袖口を縫って塞いでしまっているではないか。
(あああっ!!)
 紘子は内心絶叫した。
(慣れぬ夜なべなどをするからこのような失態を……! いや、これは己の驕りが招いたのだ……生計を立てる程度には裁縫が出来ると驕っていた故に油断したのだ! ああ、どうしよう、どうしよう……差し上げたものをお返ししてほしいと言うのも……いや、それ以前にお直しを……いやいやそれよりもまずはこのご無礼をお詫びして……)
「……」
 目まぐるしく表情を変えてひとりあたふたする紘子を、重実は珍しい物でも見るように黙って凝視する。
(こいつ、俺のことをすっかり置いて一人で狼狽してやがる……こんなひろを見るのは初めてだな。命懸けで潔白を訴え続けた女子が少々粗相をしたくらいでこうも取り乱して……しかも、こいつなりに懸命に押し殺して俺にそういうところを見せないようにしている。しっかりしているかと思えば妙に幼いところがあるもんだ。面白そうだからもう少し眺めていようか)
 そうして少しの間黙って見ていたが、次第に笑いが込み上げてきてとうとう我慢出来なくなり重実は吹き出してしまった。
「ぷっ、くく……あははははっ!!」
「っ!?」
 突然笑い声を上げた重実に、紘子は驚く。
「……重実様?」
「ふふっ……いや、すまん。お前の慌てる様がおかしくて……」
 重実は目元を拭い呼吸を落ち着かせながら続けた。
「お前はいつも抜け目がなくて、何でも器用にこなして、何かを仕損じるなど到底考えられん女子だ。そんなお前でもこんな失敗をして、そうも慌てふためくものかと思ったら……」
「お……お怒りではないのですか?」
「何故怒らねばならん? むしろ俺は嬉しい。お前にもこんな人間らしい面があるのだと知ってな。だが……」
 重実は脱いだ羽織を紘子に返す。
「俺は、どうしてもこれを着てお前と共にここを発ちたい。今、直してもらえるか?」
「……もちろんです!」

 紘子は受け取った羽織の糸をすぐに解き始めた。
(これを着て発ちたいとは……それだけ気に入って頂けたと思ってよいだろうか。仕上げを損ねたのは恥ずかしいけれど、重実様があんなにけらけらとお笑いになるところは初めて見たかもしれない。この先、重実様は私にあとどれだけの「知らぬ一面」を見せて下さるのだろうか……)
 そんなことを考えている間にも、何やら見られているような気がする。
 紘子はふと重実の方を向いた。
「……っ」
 案の定重実とばっちり目が合い慌てて羽織に視線を戻す紘子に、重実は妙に確信犯めいた微笑を浮かべて小首を傾げる。
「どうかしたか?」
(先程から重実様はずっとこちらを見ている。お、落ち着かない……)
「その……そんなに見られますと、穴が開いてしまいます」
「案ずるな、開いた穴は俺がちゃんと埋めてやる」
 今度は紘子が首を傾げた。
「仰る事がよく分かりません……」
「ああ、俺もよく分からん」
「……っ、何ですかそれは」
 目を細めて笑む紘子を見て、重実の顔が緩む。
「……いくらだって見ておきたいんだよ、お前のことは。どれだけ見ても飽き足らん」
「……」
(重実様はいつもそうだ……こちらが恥ずかしくなるようなことを何の前触れもなく仰る……)
「ほら、そうやって俺が言った些末なことですぐに赤くなるところも、愛らしくてかなわん。この先、お前は俺にどれほどの新しい面を見せてくれるんだろうな?」
「えっ」
 紘子は思わず顔を上げ、瞠目した。
(重実様は、私と同じことを考えている……)
「何だよ、鳩が豆鉄砲くらったような顔をして。ああ、その面もなかなか見ないな。そういう顔をするお前も可愛らしい」
 重実の言葉も眼差しも、いつになく緩んでいる。
 「浮かれている」とは、こういうことを言うのだろう。
 だが、対する紘子もまた自身がそうであることを自覚していた。
(初めてだ……殿方と同じ先々を思って言葉を交わすなど)
 羽織の袖口を直す視界の端には、白藍の着物の裾が映り込む。
(私には先々などないと思っていた。いつ首を落とされても仕方がないと。その私が、先々に望みを見出すようになるとは……それも、こんなにも大切にして頂きながら)
 朝永で人生に絶望していた頃が、遠く昔のことのようにさえ思えてしまう。

 幸せを噛みしめながら一針一針進め、紘子が仕上がった羽織を見せると重実はくるりと背を向けた。
 促すように腕を伸ばし、視線は「着せてくれ」と無言でせがむ。
 紘子は膝を立てて重実の背後に添い、羽織の袖に彼の腕を通した。
「どうだ? 似合……」
 立ち上がり襟元を正した重実は、振り返って紘子を見下ろすなりまたも言葉を失う。
(ああ……やはり良くお似合いだ……いつぞや長屋で思い描いた以上に、重実様には緑が映える。私が……私が差し上げたものを、重実様はこんなに嬉しそうに着ている。想いを受け取ってもらうというのは、こうも心が満たされるものなのか……)
 紘子に瞳を潤ませ恍惚に入った表情で見上げられ、重実の視線はあてもなく泳いだ。
(こいつは、分かっていてこういう顔をするのか? 俺の気も知らないで……! 如何に俺でもこの先どこまで耐えられるか……拙いな、自信が持てん……ああもう、気張れ! 一国を担う大名が筋道を違えるなど武士の風上にも置けんだろう! 落ち着け、落ち着け、心頭滅却心頭滅却……)
「に、似合うか?」
 心なしか己の鼻息が荒い気もしたが、重実は平静を装う。
「はい、とても」
(馬鹿、そこで微笑むな! ああああ、もう無理だ……)
 理性の崩れる音がした時には、重実の両腕は紘子の背中に回っていた。
「ひろ……」
「は、はいっ」
 きゅっと抱きしめられ、首筋にかかる重実の吐息に紘子の体の中がそわそわと浮き立つ。
「ありがとうな。一生大切にする……」
(……この羽織も、お前のことも)
 まだ切り出さずにいる一世一代の決意を紘子が察しているかどうかは、重実には分からない。
 だが、願わくばまだ伝わらないでほしい、武士として男として正面から伝えるまでは。
 そんなことを考えながら、重実は紘子を連れてイネや小平次らの待つ客間へと向かった。
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