第86話 左山深縁・壱

文字数 1,876文字

 主君に宝と評された兄に続き、家も継げぬ家老の四男坊は役付きの小姓を命じられ、北脇兄弟はますます舞い上がっていた。
 年相応にはしゃぐ小平次とそれを幾度となく嗜める三木助で夕餉はこれまでの道中で最も賑やかなものとなった。
「全く、少々褒めてやるとこれだ。あまり調子に乗るな、どこで思わぬ火傷をするか分からんぞ」
 上座から釘を刺す重実もまた、口ではそう言いながら二人を面白そうに眺めている。
 そんな重実もまた、一国を預かる大名という肩の荷を下ろした年相応の若侍のように見えて、それが紘子には嬉しかった。
(初めて出会った頃の「重之介」様のようだ。けれど、私の素性を知られてからというもの、思い詰めたようなお顔をされることが多かった。私と関わってしまったせいで随分と息の詰まる思いをさせてしまっていたに違いない。三木助殿と小平次殿がいて下さって、真に良かった。いつの日か、私も重実様の肩の荷を軽くしてあげられるような存在になりたい……そのために己に出来ることを常に探していかなくては)

 夕餉を終え、紘子はイネと二人重実の隣室に移った。
 この日取れた部屋は三つ、重実にはようやく殿様らしく個室が与えられている。
「小平次殿はすっかり機嫌を直されましたなぁ。いやはや、何よりにございます。姫様もまあ上手にお殿様を乗せて下すって」
「私の気も知らずに呑気なことを……」
 柔和な笑みを湛えるイネに紘子は困り顔を見せた。
「されど、お殿様があれ程の剣の腕をお持ちとは知りませなんだ。小平次殿が追いかけ回したくなる気持ちも分かります」
「それでも江戸の道場じゃ師範代に全く歯が立たなかったがな」
 突如襖の外でした声にイネと紘子は思わず瞠目する。
「少々良いか?」
「もちろんでございますっ」
 イネは慌てて襖を開け、重実を室内に入れた。
「では……」
 イネはそっと部屋を出ようとしたが、
「待て、二人に用があって来た」
 と重実は彼女を引き止める。
(イネも関わる話とは一体何であろうか……? 重実様のお顔は少々硬いように見えるが……何か良くないことでもあったのだろうか……)
(あまり不安にはさせたくないが……そういう顔になるだろうな)
 思い当たる節を探す紘子の表情を眺めていると、重実の胸も否応なくざわついた。
(だが、このままでは明日には江戸に向かう道から完全に外れる。瀬見守様に残された刻は長くないと田邉殿は言っていた。今夜を逃すと機を逸する)
 重実は勧められた座布団に腰を下ろすと、二人を前に意を決して切り出す。
「三木助らには既に話したが、旅の道程を少々変える。一度江戸に入り、富樫なる者の遺髪を左山藩邸に届ける」
 その一言でイネの表情が一気に冷えたことに重実は気付いた。
 だが、イネは
「左様でございますか。承知いたしました」
 とだけ、いつものように頭を下げて答える。
「イネ、お前を思えば左山に情けは無用だろうが、こちらにも事情があってな……」
 イネを気遣うような重実の言動を訝しみ、紘子は彼とイネを交互に見つめた。
「左山と何か関わりが?」
 紘子が静かに問うと、イネは半べそをかきそうな勢いで顔を歪める。
「……姫様の朝永輿入れを強く推し進められたのが佐野瀬見守様、左山藩の藩主であらせられた方にございます」
(そうか……当時私はそこまでの詳細を聞かされてはいなかったが、イネは知っていてもおかしくはない。では、富樫殿の一件以来、イネはずっと独りで心に靄を抱えていたのか……)
 イネの気持ちを思うと、紘子は有り難く思う反面いたたまれない。
「私が今更それを知ったところで父上も母上も戻らぬ、瀬見守様への恨みばかりが募り私が苦しい思いをするだけ……そう思って己だけで背負ってくれていたのだな。さぞ苦しかっただろうに」
「ひ、姫様……っ」
 紘子の言葉を聞いたイネの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
 紘子はそっとイネの手を取る。
「確かに、その事実を知った上で瀬見守様に相対せば私は心穏やかではいられないだろう。だが……」
 紘子は重実をちらりと見た。
「……私は、もう独りではない。それに、重実様は『事情がある』と仰った。それは、富樫殿の件以外に、私たちがいながらも敢えて左山の藩邸に行かれるとお決めになるほどの重きこと。……重実様、そうではありませんか?」
(全く、こいつはそこまで見透かしているか)
 重実は苦笑を見せながら
「ああ」
 と頷くと、左山藩邸に赴く真の目的を口にする。
「瀬見守様の末子、田邉親房殿にかねてより頼まれていてな。瀬見守様は病により先の短い御身、命あるうちにひろに一言詫びを入れたいそうだ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み