第22話 飯盛女の戯言

文字数 2,633文字

 峰澤城下の通りには旅籠が二、三軒建ち並ぶ。
 そのうちの一軒「とき屋」の一室では、お(ゆき)という名の飯盛女が開いた障子窓からぼんやりと外を眺めていた。
 はだけた襦袢から覗く色白の足を、男の手がすり上っていく。
「何を見ている」
 男はお雪の耳元で尋ねた。
 今にも夜を迎えそうな空には、雨雲が立ちこめている。
 あと一刻か二刻、そう掛からぬうちに降り出すだろう。
「……昔を思い出しちまったのさ」
 甘い吐息を交えながら、お雪はぽつりと答えた。
「昔?」
 男の手が止まる。
 お雪は男に顔を寄せ、艶めかしく唇を動かした。
「旦那だって、あるだろう?失っちまったものを懐かしむ時がさ」
 男は無言でお雪の頭を掴むと、彼女の唇に吸い付く。
 舌先を這わせ、貪り、甘く食んで一寸離すと、男は
「気付けば失われていたものに、懐かしみなど感じぬ。口惜しさは感じれどもな」
 と囁いた。

 男はその家柄ゆえか、それとも気性ゆえか、とかく敬遠されがちだった。
 その上、男には憎らしい程出来の良い兄がいた。
 家督も、財産も、地位も、はては周囲の人望さえも、最初からすべて兄のもの。
 男には……何一つなかった。

 それ故であろうか、男には最近出入りを始めたここが至極居心地の良い場所だった。
 ここで働く飯盛女は、素性は様々あれど皆売られてきた女たちだ。
 何もかもを持たぬ男は、飯盛女に己を重ね合わせているのであろう。
 ここでは癇癪を起こす事も、兄を妬む事も、孤独に苛まれる事もなかった。

「ひと雨来るか……」
 今一度外を見やり、男は忌々しげに舌打ちする。
「雨は嫌いかい?」
「いや。この後用事がある故、降られると面倒でな」
「何だい」
 お雪はふいっとそっぽを向いた。
「あたしを放って出向くなんて、余程の用事なんだろうねぇ」
「そうむくれるな」
 男はフッと笑うと、お雪の首筋に顔を埋め、鼻先で胸元まで辿る。
 お雪が期待混じりに艶めかしい声を上げたところで、男は焦らすように彼女の胸から顔を離した。
 そして、
「ところで、お前が懐かしむ程の昔とは、如何なるものだ?」
 と、戯れ程度のつもりでお雪に問う。
 お雪も
「まるで、作り話のような話さ」
 と甘美な余韻混じりの笑みを浮かべながら、しかしその瞳を仄かに憐れみの色に染めて話し始めた。

「今はこんなでもね、信州の近くじゃお城勤めの女中だったんだよ」
「何だ、主家が取り潰されて身を落としたくちか」
 男の無遠慮な問いに、お雪はフンと鼻を鳴らす。
「やだよ、あけすけだねぇ。けどまぁ、その通りさ。殿様が『あんな事』にならなきゃ今頃まだあたしはお城にいられたのかもしれないけど」
「『あんな事』……?」
 男が眉間に皺を寄せた。
 すると、お雪はふっと笑みを消し、声をひそめる。
「……殺されたのさ。それも、よりによって奥方様に」
「何だと?」
 瞠目する男の反応に、お雪は慌てて付け加える。
「けどね、あれは奥方様の仕業じゃないよ。恐らく、(まこと)の下手人が奥方様に罪を被せようとしているのさ。あの奥方様に、そんな事が出来るわけがなかったからね。何せ、奥方様はだいぶ弱っていらしたんだから」
「病か?」
 「病」の一言に、お雪は難しそうに首を捻った。
「病と言えば……病になるんだろうね。輿入れされた頃はまるで梅の花みたいに可愛らしいお方だったんだけどね、殿様に酷い折檻を受けるうちにどんどんおかしくなってった。一年過ぎた頃には、ご心労のせいか歩くのがやっとなくらいにまで胆力がなくなっちまってね。おまけに御髪(おぐし)がごっそり抜け落ちたり、月経(つきのもの)が止まったり、どんな薬も効かないもんだから医者も匙投げちまった。終いには、おひとりでぶつぶつと同じ事を何度も何度も呟かれるようになってさ……あたしまですっかり覚えちまったよ。確かねぇ、弓矢を取るとか恥がどうとか……」
「『弓矢を取る習い、敵の手にかかって命を失う事、まったく恥にて恥ならず』か?」
 当時の「奥方様」のうわごとをすらすらと再現してみせた男に、今度はお雪が目を見開く。
「そうそう、それだよ!」
「平家物語の『千手前』だな。捕らわれた三位中将(たいらの しげひら)兵衛佐(みなもとの よりとも)に言うた言葉だ。敵の手に掛かり命を失う事は全く恥のようで恥ではない、という意だ。この後、三位中将はさっさと己の首を刎ねろと言い、それっきり申し立ても命乞いもしなかったという。その奥方とやら、三位中将のように死を覚悟しながらも気高くあろうと己に言い聞かせておったのやもしれぬな。全く、何が『すっかり覚えた』だ、うろ覚えではないか」
「へへ、あれから二年も経てば忘れちまうよ。それにしても、旦那も大したもんだねぇ。平家物語ってのはえらく長い物語じゃないか。それをここまで覚えてるとはさ」
「それで、その奥方とやらはどうなった」
 男はお雪に褒められた事などさらりと流し、酒を手酌でひと口呷った後、彼女に続きを促した。
 お雪の瞳が宿す憐れみの色が濃くなる。
「行方知れずさ。殿様が亡くなる直前に姿消して、それっきり。ちょうど、こんなどんよりした日だったよ。そういえば、ご実家から一緒に来たっていう世話女中も一緒にいなくなったっけ。さすがにあの奥方様をおひとりには出来なかったんだろうね。それにしても、あの殿様には勿体ない良い奥方様だったよ。御髪はぼろぼろ、体はふらふら、まるで喧嘩に負けた死に際の猫みたいな酷い有様だってのに、それでもあたしたちには『苦労を掛ける』だの『かたじけない』だのって言って心砕いて……。輿入れされた時なんてまだ十四の年端もいかない娘だったのに、本当に良く出来たお方だった」
「確かに、まるで(うつつ)の事ではないかのような話だな」
 男は一言そう呟くと、お雪の襦袢の合わせに手を滑り込ませた。
 ずり落ちる襦袢から露わになる肩に顔を埋め、更にその手を華奢な背中に回す。
 「現」を感じたくて。
 ここに独りではないと、飯盛女の体温で己に言い聞かせたくて。
「昔話は終いにしろ」
 男の台詞は吐息と共にお雪の首筋をくすぐった。
「ちょっと、この後用事があるんじゃなかったのかい?」
「まだ一刻ある」
「んもう……お代、弾んどくれよ」
 お雪は男の愛撫を受けながら共に褥に沈んだ。
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