第48話 一縷の望み・壱

文字数 3,943文字

 重実が不在となった峰澤藩で、従重が名代を務め二日経った。
(大久保にはああ言ったものの、よもや名代を押し付けられるとはな……これでは城を抜け出す事さえ容易ではない。いっそご公儀に密告してはどうか……いや、そんな事をしてあやつらが下手な事を喋れば……。だが、兄上ならばご公儀と繋がりもある、謀反人の言葉よりも我々の事を信用してもらえるのではないか? いや待て、大久保にはそれ以外の「切り札」が何かあるのやもしれん、故にあれ程安易に俺に企みを明かしたのではないか? いずれにせよ、紘子を見つけ出すには今はあやつらに従うより他あるまい。あるまいが、それでは兄上の立場が……)
 大久保の出方が読めず、従重は何度となくかぶりを振る。

 更に、彼の悩みの種はそれだけではない。
 紘子が祠に置いたであろう懐剣と書状の真意が全く掴めないのだ。
(斯様な所にあのような物を残すとは、紘子は己が拐かされるであろう事を予期していたのであろうか? それに、何故紘子は清平の家紋が入った懐剣なぞ持っていた? よもや兄上が紘子にくれたか? いや、兄上は素性を隠して紘子に近づいておる、みすみす己の正体を晒すような真似はすまい。だが、ならば何故……。加えてあの句だ。「三ツ半に 狂い椿を 食ふやもり 知らぬ逢瀬よ 椿落つとも」……椿は清平の家紋を指しているのであろうが、あとはどうも解せん……)
 中奥の書院で上座に腰掛けながら、従重はずっと紘子の句を解こうとしている。
(あの書状の中身は、知らぬおなごの三行半だった。何故紘子はあんな物を持っていたのであろうか……)

「……様、……重様」
 忠三郎が呼ぶ声も、従重の耳には入らない様子だ。
(「逢瀬」は三行半にあったおなごと間男の逢瀬だったのか? 「やもり」とは、あの蜥蜴の如き「やもり」の事か? さて……)
「従重様!」
 強い語調で名を呼ばれ、従重はようやく忠三郎と目を合わせた。
「ああ、すまん。今日は名主が目通りする予定だったな。刻限になったら通せ」
「それは承知いたしましたが……従重様、何かお悩みにございますか?」
 忠三郎に気遣われ、従重は気まずさに目を逸らす。
(大久保に弱みを握られた事を、北脇に話してよいものか……)
 自身で解決するには手に余る状況と知っていながらも、従重は打ち明けられずにいた。
(……だが、歌と懐剣の事を訊ねるくらいは問題なかろう)
 従重はそう思い直し忠三郎に問い返す。
「北脇、やもりは椿を食うものか?」
「は?」
 突然何の脈絡もない問いを投げられ、忠三郎はぽかんと口を開けた。
 だが、目の前にいる従重は曲がりなりにも殿の名代、今この時は己の主君である。
 すぐに気を取り直し、
「恐れながら、やもりは小さき蛾や蜘蛛を食すと聞き及んでおります。花は食いますまい」
 と答えた。
「であろうな。話は変わるが、清平の家紋入りの懐剣を何者かに与えた事はないか?」
「懐剣、でございますか」
 忠三郎の脳裏に、二年前に重実が旅の僧に扮した紘子に手当ての礼として懐剣を差し出した光景が甦った。
「それは……」
 
 忠三郎が答えようとした時、襖の外から呼び声が掛かる。
「ご家老、勝徳和尚がおいでです」
 忠三郎は重実からの言伝を勝徳に伝えようと、
「恐れながら従重様、殿より和尚に言伝を預かっております故、失敬いたします。懐剣の事については、後程……」
 と言って下がろうとした。
 しかし、従重は忠三郎を呼び止め、焦りからかつい本音を漏らしてしまう。
「待て。それが分からねば紘子の居所も……っ」
 うっかり口を滑らせ紘子の名を出してしまい従重ははっと口ごもったが、忠三郎を誤魔化す事は出来なかった。
「……従重様、その懐剣の主について何かご存知なのでございますか?」
 口をつぐんだままの従重に、忠三郎は何かを悟った様子で
「和尚をこちらに案内いたします」
 と告げ、書院を出る。

 忠三郎に通され頭を下げている勝徳に、従重は頭を上げるよう声を掛けた。
 そして、忠三郎に問う。
「兄上から和尚への言伝とは、何だったのだ」
「急ぎ信州朝永へ参れ、旧朝永藩近くの宿で落ち合おう、と」
 忠三郎は淡々と答えた。
「何故斯様な小藩に赴くのだ? 峰澤は朝永とはこれといった縁もなかろう」
 怪訝そうにする従重に口を開いたのは勝徳だ。
「その件につきましては、拙僧の方からご説明した方がよろしいかと。少々長くなりますが、ご容赦下さい」
 勝徳は簡単にだが順を追って話し始める。
 重実に命じられ紘子の素性を調べた結果、その正体がかつて朝永藩主であった夫を殺したとされる鬼頭幹子と思われるものの、藩主殺しそのものが濡れ衣である可能性が高いと分かった事を告げた。
 それから、
「ご家老様に言伝を頼まれ先に朝永に発ったという事は、拙僧が方々を駆けずり回っている間に何やら火急の事態が起こったという事でございましょうか?」
 と忠三郎に尋ねる。
「うむ……」
 忠三郎はちらりと従重を見た後、やや言いにくそうに
「確かな事は分からぬが、紘子殿が朝永の手の者に落ちたやも、と」
 と返した。
 これに勝徳は険しい顔を見せ、従重は
「何だと!」
 と声を上げる。

 勝徳と忠三郎はそんな従重の様子に顔を見合わせた。
 互いに「よもや従重も紘子と関わっていたのか、面倒な事になりそうだ」とでも言いたげに。
 一方、従重の方はというと、二人の懸念など察する余裕もなく紘子の事で頭がいっぱいだ。
(紘子が、大名の奥方だったとは……いや、城に出入り出来るだけの身分であろうとは薄々分かっていた、分かっていたが、よもや藩主の妻とは……。では、その頃に城で余程恐ろしい目に遭っていたというのだろうか……。待て、鬼頭幹子、鬼頭……はて、何処かで……)
 従重を無視して話を進めるわけにもいかず、勝徳は呆然としている従重を呼ぶ。
「従重様」
「な、何だ」
「事は一刻を争いますので、早速ご紹介したき者を通してもよろしいでしょうか?」
「さ、左様か。通せ」
 心ここにあらずといった調子で従重が命じると、勝徳は部屋の外に
「どうぞ」
 と声を掛けた。

 平伏しながら姿を見せたのは、ひどく窶れた様子の僧だ。
「和尚、その者は?」
 忠三郎に問われ、勝徳は答える。
「この方は鬼頭家の菩提寺に元いた僧で、紘蓮(こうれん)殿でございます。幹子殿が朝永の城を出るのに手を貸された僧その人にございます」
「何と……」
 瞠目する忠三郎と従重に勝徳が続ける。
「紘蓮殿は幹子殿と江戸の手前で別れた後、江戸市中を転々としながら暮らしておられたそうです。紘蓮殿、ご存知の事を全てお話し頂けますか」
 勝徳に促され、紘蓮は低い声でこれまでの経緯を話し始めた。
「某は、母が幹子様の世話女中だった縁で、幼少の頃より幹子様を見知っておりました。幹子様は八束(やつか)家の一人娘で、本来ならば婿を取りお家を存続させるべきお方でしたが……八束家が公家に近いお家柄である事に目を付けた鬼頭家が、立場に物を言わせ婚姻を推し進めてしまったのです。鬼頭家には当時からあまり良い噂はなく、案の定幹子様は大層痛ましい目に遭われ心身共に弱っておいででした。そこで、御夫君から離縁状を頂くよう某が幹子様に案を授けたのでございます。離縁状を頂いた幹子様を、某は母と共にその日の内に御殿から連れ出しました。八束のご実家に身を寄せて頂こうと、かれこれ七日程歩きお連れしたものの……」
「八束家のご両親は既に捕らえられていた、という事ですね」
 言い淀んだ紘蓮に勝徳がそっと口を添えると、紘蓮は苦しげな面で頷く。
「はい、ご実家の手前の刑場に、旦那様と奥様の御首が……。どうやら、某らが御殿を出て数日の間に鬼頭様が何者かの手に掛かったようなのですが、幹子様と某の母がその下手人として手配された事がご両親を捕らえる理由となったようでした……。幹子様がいわれなき罪にて裁かれてはならぬと、追っ手の目を誤魔化すべく母は単身で尾張方面へ、某と幹子様は江戸方面に逃れる事にしたのです。しかし、某が幹子様と連れ立っているという噂が流れ、このままでは目を付けられると案じ、江戸の手前で二手に分かれました。幹子様とはそれきりにございます」
「そして、その幹子とやらは紘子と名を変えこの峰澤に住み着き、其方は江戸を転々としていたというわけか」
 半ば信じられないといった顔をしながらも、従重は紘蓮の話を受け止めた。
「仰るとおりにございます……」
 だが、ここで従重は「何か」が引っ掛かるようなすっきりしない感覚に陥った。
(紘子が幹子で、紘子は何故か離縁状を祠に……離縁状、離縁状……)

 紘蓮の言う離縁状と紘子が祠に隠した離縁状が従重の中で重なろうとするが、それを無視して忠三郎たちの話は進む。
「だが、和尚はよくもまぁ江戸に手掛かりを見つけたものだな」
 感心する忠三郎に、勝徳は軽く頭を下げつつ答える。
「朝永藩元家老の吉住について調べるよう殿より仰せつかり、その者を追っていたところ、紘蓮殿に巡り会ったのです。紘蓮殿は最近になって江戸で吉住を見かけたらしく、その動向を探っていたそうで」
「……はい。当初は某や幹子様を追って江戸に来たものかと思いましたが、どうやらそれ以上に執心している事がございましたようで……。調べましたところ、吉住は由井正雪という軍学者の私塾に出入りしておりました」
 勝徳に続いて報告する紘蓮の口から出てきたまさかの名に、従重は声を上ずらせた。
「由井正雪だと!?」
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