第83話 北脇兄弟と重実・壱

文字数 2,798文字

「紘子殿」
 沈んだ様子の重実の背中を見送る紘子を三木助が呼ぶ。
「先程は、枇杷丸をよこして下さりありがとうございました。あれは城一番の臆病馬なのですが、紘子殿に言われると賊の前でも奮起するようです」
「いいえ、枇杷丸が良い子なのです。三木助殿がご無事に戻られて、私たちもどれ程救われたか……ありがとうございます」
 三木助が冗談交じりに礼を言ってみても紘子の表情はあまり晴れず、不審に思った三木助は重実と小平次に順に視線を移した。
 険悪とまではいかずともよそよそしくぎこちない雰囲気を二人から感じ取り、三木助は溜め息を吐く。
「殿はまだ『あのこと』を引きずっておいでか……」
「『あのこと』……?」
 首を傾げた紘子に、三木助は困ったように微笑んだ。
「紘子殿、イネ殿、後程少々よろしいですか? 殿のためにも、特に紘子殿にはお話ししておいた方が良いやもしれません」

 夕刻近くになり今宵の宿に到着すると、三木助は紘子とイネを宿の縁側に誘った。
腰掛けた二人の隣で三木助は正座し、茶を勧めながら話を切り出す。
「お二人は、小平次の額に傷があるのにお気付きですか? 右側の……この辺りです」
 額の右側を指しながら説明する三木助に、紘子は首を横に振ったがイネは
「ええ、お見かけしましたよ。随分古い傷のようで、よぅく目を凝らさぬと気付きませんが」
 と頷いた。
「さすがはイネ殿、小平次と気が合うだけのことがある。あの傷は、小平次がまだ齢六つの頃に木刀の切っ先に抉られて出来たもので……殿が付けたものにございます」
「重実様が……?」
 僅かに目を見開く紘子に、三木助は切ない笑みを浮かべる。
「はい。あの頃、殿はまだ元服前の若君でした。剣術の稽古がお好きでよく道場で家臣の子らに混じって腕を磨いておいででしたが、我が弟の小平次もまた幼き頃より剣の才があり、殿は小平次を大層可愛がって共に打ち合うこともしばしばでした。ある時、小平次が殿に稽古を願い出まして、快く引き受けられた殿は城の庭で打ち合いを始めたのですが……小平次が途中で庭石に足を取られまして、急に前につんのめってしまったのです。当時、殿は小平次と打ち合う際には小さい小平次に怪我をさせぬよういつも間合いを広めに取っておいでで、その時もそうしていらしたのですが、突然つんのめってきた小平次に合わせられず、殿の木刀の切っ先が……。それでも殿は咄嗟に木刀の軌道を逸らし、そのおかげで小平次の目は潰れずに済んだのですが、殿は大層ご自身を責められて、以来小平次とは打ち合わず、常にご自身より大柄で強い者ばかりを相手になさるように……」
 そこまで話したところで三木助が一拍置くと、イネはゆっくりと頷いた。
「それで、小平次殿はお殿様に子供扱いされていると思っているのですなぁ」
 だが、その「子供扱い」と、賊を前にした時の「手加減をしろ」という重実の(めい)の間に紘子は矛盾を感じる。
「小平次殿を子供扱いしているなら、何故重実様は『切り捨て御免』ではなく難儀な『手加減』を命じたのだろうか?」
「え? 殿が小平次に斯様な……紘子殿、それは真ですか?」
「はい。重実様は、押し返すだけにして深追いはするな、と小平次殿に。それはつまり、相手を殺めてはならぬということでしょう。武芸では、己の全力を以てただ相手を倒すより、相手の命を取らずして動きを封じる程度に己の力を抑えることの方が遥かに難儀であると昔父に教わったことがあります。小平次殿を子供と思っているならば、たとえ相手を殺めようとも気にせず己と私たちの身を守れと命じる筈です」
「確かに……姫様の仰ることももっともです。されど姫様、やはりお殿様は小平次殿を子供扱いされておいでですよ」
 イネはそう言って苦笑した。
「相手を大事に思えば思うほど、たとえ己が苦しむことになろうと盾になり傷付かぬよう守ろうとする……お殿様がそうした気質の持ち主なのは心得ておりますが、それは時として相手を侮っている、信じておらぬということにも繋がるのです。あの場では、一度三人の賊の相手を小平次殿に任せた以上は、お殿様は手出し口出し無用だったとイネは思いますよ」
「……そういう、ものなのか?」
 目を丸くする紘子に、イネは目尻の皺を一層深くする。
「時により、でございますが。『獅子は我が子を谷底に突き落とす』と申しましょう? 子を育てるとは、そういうものですよ」
 イネは「よいしょ」と立ち上がると、
「さて、小平次殿の方は私にお任せ下され。姫様は、お殿様に寄り添って差し上げて下さりませ。今頃、苦しき胸の内を誰ぞに聞いてもらいたくて仕方ない頃合いでしょうからなぁ。では」
 と微笑んで小平次の元に向かった。
「イネ殿は何と貫禄のある……」
 イネの背中を見送り、三木助は感嘆の息を漏らす。
「イネは私の乳母であるだけでなく、三人の()の子を産み育てた母です故」
「それまはた……」
「ですが……」
 紘子はその先を口にするのを躊躇ったが、視線を下げ僅かな沈黙を挟んだ後、
「……仕えていた八束家が取り潰された際に士分も失い、一家離散した挙げ句に子息たちは病で亡くなったと聞きました。イネの子息で残っているのは、出家した末っ子の紘蓮殿だけです」
 と三木助に打ち明けた……が、そこまでで口を噤んだ。
(私のせいだ……私が鬼頭様の正室としてあのまま朝永で大人しく死んでいたらそうはならなかった)
 紘子の両親からの命によりとはいえ、彼女に付き従ったばかりにイネは全てを失った。
 だというのに、彼女は今度こそ生涯をかけて紘子を支えると誓いここにいる。
 感情豊かで大らかに明るく振る舞うその心の奥に、どれ程の未練と悲しみそして壮絶な覚悟を秘めているのか。
 紘子にとって、イネは母とはまた違った「武家の女子の鑑」だ。
(……故にこそ、イネの人生には私が責を持つのだ。イネのこの先の人生が穏やかであるように)
 過去を振り返り嘆くよりも、イネの今とこれからをより良いものに……紘子は口を閉ざしながらも秘かに己にそう課した。

 沈黙する紘子を前に、三木助はそれ以上イネのことを尋ねてはならない気がして、話題を切り替える。
 むしろ、新たに切り出そうとしている話題の方が三木助にとっては本題と言えるかもしれない。
「それにしても、とにかく皆が無事でまこと安堵しました。今更ながら、賊に囲まれ一大事の時にあの場を外し武を振るえなんだこと、不甲斐ない限りで……」
「そのようなことはっ。重実様は、武士の品格と知恵を備えた三木助殿だからこそ助けを呼びに行かせたに違いありません。私やイネが行ったところでまともに取り合ってもらえるかどうか――」
 つい己の世界に浸ってしまっていた紘子は慌てて意識を三木助に戻し首を横に振ったが、三木助はそれを
「――殿の真意はそうではありません」
 と寂しそうな笑みで遮った。
「殿は――私が邪魔だったのです」
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