第63話 その手を引くのは・肆

文字数 1,028文字

「重、実……様……」
 掠れて殆ど聞き取れないような声が洩れる。
「ひろ……?」
 紘子の左目が僅かに開き、その視線は虚ろながらも重実に向いていた。
「……重実様の……『不死の薬』が……効いたようでございます……」
 息苦しそうに途切れ途切れそう囁く紘子は、痛々しい顔ながらも確かに微笑んでいる。
「馬鹿……」
 ぽつりと零した重実の唇が震えた。
「……こんな時に、気の利いた返しなんかするなよ……お前が誰より苦しい時だってのに」
 しかし、生憎今の紘子は小さな声が聞き取れない。
 ただ、重実の表情が意識を失う直前に見たものと同じである事に、ひどく胸が痛む。
 なぜ彼はこんな、今にも泣き出しそうな顔をしているのだろうか。
 何か余程の辛い事があったのだろうか。
(よもや……ご公儀から手痛いお沙汰を食らったか……)
「お沙汰……」
「は?」
 掠れた声で何かを言おうとしている紘子の口元に重実は耳を近付けた。
「清平の、御家は……ご無事でしょうか……」
「――っ!」
(何故お前はそうも己を後回しにするんだ!)
 とうとう堪えきれなくなった重実の顔が歪む。
「無事も何も、お前は……お前は勝ったんだ!」
 重実は紘子の耳の傍で声を張った。
「お前の濡れ衣は晴れた! 吉住は縛に着いた! お前は、俺の家を守ったばかりか、八束の名誉も回復させたんだ!」
「では、お沙汰は……」
「お前に咎なしと沙汰が下った」
 「咎なし」、その一言が耳に入った瞬間、紘子の視界がぼやける。
(重実様は、間に合って下さったのか……この方は、本当に私を守って下さった……)
「あ……ありがとう、ござ……」
 言葉はもはや閊え、嗚咽さえ掠れて吐き出されるばかりだ。
 声を上げて泣くだけの力さえない紘子を目の当たりにして、重実の中で何かがぷつりと切れた。

 重実は紘子を掻き抱いて泣いた。
 人目も憚らず大声を上げながら。 
 言葉を知らぬ幼子のように、ただただ感情のままに泣いた。
 
 ……どれ程そうしていただろうか。
 紘子の体温を感じようやく重実が落ち着き始めた頃、彼の耳元で紘子は小さく呻きながら囁いた。
「重実様、少々背中が痛いです……」
「……っ、すまん」
 はっとして腕の力を緩めると、重実は彼女をそっと下ろす。
 我に返ると改めて羞恥が込み上げ、紘子の顔をまともに見られない。
 代わりに、彼は紘子の手を取り、きゅっと握った。
 体はあんなにも温かかったのに、ひどく冷たい手だ。
 だが、その冷たい手の中に、紘子はしっかりと新しい櫛を握っていた。
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