第23話 城に見る悪夢・弐
文字数 1,447文字
痛みと熱の奔流の合間に、雨音が響く。
徐々に覚醒しつつある紘子の意識に滑り込んできたそれらは、彼女を二年前に遡らせた。
――二年前。
信州朝永藩、藩主御殿。
「後生でございます、離縁して下さりませ……」
外から聞こえる葉擦れの音に掻き消されそうな心許ない声で、幼妻は乞う。
妻の手の平は乾いた血に染まっていた。
血染めになっていたのは手の平だけではない。
白絹の寝間着にも所々赤黒い染みが出来ている。
この日、夫は珍しく起きていた。
普段は昼前まで褥にのけぞり高いびきをかいている夫が、今朝は珍しく覚醒している。
たまに酒量が少ない晩の翌朝はこうして正気を取り戻す事もあった。
とはいえ、たとえ正気のうちにあっても元々の気性なのか酒に精神を蝕まれているせいなのか、夫の言動はいつも他人任せで投げやりで、独りよがりだった。
夜が明けて酒の抜けた夫は、血がこびり付いたまま捨て置かれている懐剣を拾い上げる。
「三行半か……」
酒に酔い、妻を押し倒し、笑わぬ妻に笑えと強要するあまり懐剣で斬り付ける……その「悪夢」は夜毎繰り返された。
記憶に残らない己の豹変。
記憶に残らない故に、夫には罪悪感もない。
故に、妻に謝ることもない。
「医者に聞いた。其方、子の出来ぬ体だそうだな」
「……申し訳ございません」
幼妻は声を震わせた。
夫が怒りはしないかと、今度は何をされるかと、心臓が嫌な音を立てる。
それでも妻は逃げない。
これが己の宿命だと、ここで殺されようとそれはみっともない事ではないと、何度も何度も自身に言い聞かせてきたから。
拾い上げられた懐剣がまた襲い掛かるかと全身を硬直させるが、意外にも夫は文机の前に座して筆を走らせ始めた。
そして、
「これを持って何処へでも行け」
と差し出されたのは、三行半の書状。
「子の産めぬ正室に用はない」
吐き捨てられた言葉を胸に突き刺したまま、妻は平伏して書状を受け取る。
「お世話になりました……」
妻は別れの挨拶を残しふらふらと寝所を出た。
熱に浮かされながら、紘子はゆっくりと瞼を上げた。
胸の傷の痛みは刺すように全身を巡る。
それでも紘子は腕を動かし、寝間着の袖に触れた。
(三行半が……ない!)
目覚めた紘子の脳内は過去の記憶がフラッシュバックした状態のままだ。
(確かに旦那様に頂いた筈なのに!)
袖の下に紙の感触がない事に、紘子の息は段々荒くなり瞳は忙しなく辺りを見回す。
広く高い天井、清潔な布団、菜種油の行燈、綺麗に張られた畳と障子……この空間は、紘子がかつて地獄を見た城の寝所とよく似ていた。
……いや、心が過去に戻ったままの紘子には、ここはその「地獄」にしか見えない。
(連れ戻されたんだ!)
「に、逃げなくては……!」
紘子は布団から飛び起き、部屋を出て縁側から裸足のまま外に下りた。
雨足は激しくなり瞬く間に紘子の全身を濡らす。
それでも紘子は狂ったように暗がりの中を走り回った。
城から離れるように、本能的に下り坂を探り当て駆け下りる。
しかし、大量失血した上に傷による高熱と激痛に苛まれた体でそう長く走れる筈もない。
茂みを抜けて城へと続く道に出た所で、紘子はまるで膝が砕けたかのように倒れ込んだ。
「逃げなくては……」
呻くように呟くものの、体は動いてくれない。
(逃げなくては、いけないのに……)
紘子の意識は、そこでぷつりと途切れた。
徐々に覚醒しつつある紘子の意識に滑り込んできたそれらは、彼女を二年前に遡らせた。
――二年前。
信州朝永藩、藩主御殿。
「後生でございます、離縁して下さりませ……」
外から聞こえる葉擦れの音に掻き消されそうな心許ない声で、幼妻は乞う。
妻の手の平は乾いた血に染まっていた。
血染めになっていたのは手の平だけではない。
白絹の寝間着にも所々赤黒い染みが出来ている。
この日、夫は珍しく起きていた。
普段は昼前まで褥にのけぞり高いびきをかいている夫が、今朝は珍しく覚醒している。
たまに酒量が少ない晩の翌朝はこうして正気を取り戻す事もあった。
とはいえ、たとえ正気のうちにあっても元々の気性なのか酒に精神を蝕まれているせいなのか、夫の言動はいつも他人任せで投げやりで、独りよがりだった。
夜が明けて酒の抜けた夫は、血がこびり付いたまま捨て置かれている懐剣を拾い上げる。
「三行半か……」
酒に酔い、妻を押し倒し、笑わぬ妻に笑えと強要するあまり懐剣で斬り付ける……その「悪夢」は夜毎繰り返された。
記憶に残らない己の豹変。
記憶に残らない故に、夫には罪悪感もない。
故に、妻に謝ることもない。
「医者に聞いた。其方、子の出来ぬ体だそうだな」
「……申し訳ございません」
幼妻は声を震わせた。
夫が怒りはしないかと、今度は何をされるかと、心臓が嫌な音を立てる。
それでも妻は逃げない。
これが己の宿命だと、ここで殺されようとそれはみっともない事ではないと、何度も何度も自身に言い聞かせてきたから。
拾い上げられた懐剣がまた襲い掛かるかと全身を硬直させるが、意外にも夫は文机の前に座して筆を走らせ始めた。
そして、
「これを持って何処へでも行け」
と差し出されたのは、三行半の書状。
「子の産めぬ正室に用はない」
吐き捨てられた言葉を胸に突き刺したまま、妻は平伏して書状を受け取る。
「お世話になりました……」
妻は別れの挨拶を残しふらふらと寝所を出た。
熱に浮かされながら、紘子はゆっくりと瞼を上げた。
胸の傷の痛みは刺すように全身を巡る。
それでも紘子は腕を動かし、寝間着の袖に触れた。
(三行半が……ない!)
目覚めた紘子の脳内は過去の記憶がフラッシュバックした状態のままだ。
(確かに旦那様に頂いた筈なのに!)
袖の下に紙の感触がない事に、紘子の息は段々荒くなり瞳は忙しなく辺りを見回す。
広く高い天井、清潔な布団、菜種油の行燈、綺麗に張られた畳と障子……この空間は、紘子がかつて地獄を見た城の寝所とよく似ていた。
……いや、心が過去に戻ったままの紘子には、ここはその「地獄」にしか見えない。
(連れ戻されたんだ!)
「に、逃げなくては……!」
紘子は布団から飛び起き、部屋を出て縁側から裸足のまま外に下りた。
雨足は激しくなり瞬く間に紘子の全身を濡らす。
それでも紘子は狂ったように暗がりの中を走り回った。
城から離れるように、本能的に下り坂を探り当て駆け下りる。
しかし、大量失血した上に傷による高熱と激痛に苛まれた体でそう長く走れる筈もない。
茂みを抜けて城へと続く道に出た所で、紘子はまるで膝が砕けたかのように倒れ込んだ。
「逃げなくては……」
呻くように呟くものの、体は動いてくれない。
(逃げなくては、いけないのに……)
紘子の意識は、そこでぷつりと途切れた。