第27話 迫る影・壱
文字数 2,366文字
峰澤城下の料理屋「木戸屋」。
この小藩の城下で唯一の料理屋らしい料理屋だ。
「あらまぁ大久保 様、今宵もお連れ様方とご一緒で。いつもご贔屓にして下さりまして」
木戸屋の女将・初江はすこぶる上機嫌で大久保という客とその連れを案内する。
大久保の腰には二本の刀、羽織も袴も織りの良いものを身に付けていた。
年の頃は五十近くであろうか、頭髪にはやや白いものが混じっている。
出で立ちからしてそれなりの役職に就く武士であろうと思われた。
大久保の連れは三人、皆彼と同じく帯刀しているがその風体は大久保に比べると随分小汚く、浴衣か長着か分からぬようなよれた生地の着物を着ていたり埃っぽい袴を履いていたりと、どうにも大久保とは不釣り合いだ。
だが、連れの格好など初江にはどうでも良い。
毎度この者たちの飲食代も全て大久保が気前良く払ってくれるのだから。
「いやいや女将、礼を言うのは此方の方だ。来る度に上手い飯と上手い酒に迎えられ、実に有り難い」
「あら、お上手ですこと」
ほくほくした笑顔を振りまきながら二階の上等な部屋に大久保らを通そうとした時、番頭が初江の元に小走りにやってきた。
「女将、例のお侍がまた……」
途端に初江の顔が曇る。
「『また』って、まさかあの偉そうなお侍かい?ここのところてんで顔を出さなくなって喜んでたっていうのに。まさか、紘子が戻っていやしないかとでも思ってるのかね?」
「……如何いたします?」
「部屋に空きがないとでも言って追い返しておくれよ」
初江が番頭にそう命じた時だ。
「女将、差し出がましいようだが、そのお侍とやらを我々の部屋によこしてはどうかね?」
大久保からの突然の提案に、初江は素っ頓狂な声を上げた。
「何を仰りますか!あんなお侍と相部屋なんかになったら、お食事どころではなくなりますよ!」
大久保は柔和な笑みを浮かべたまま返す。
「私たちは本来江戸で働く身でね、この地の事はまだよく分からぬのだよ。袖振り合うも多生の縁と言うではないか。これを機にこの地の侍と昵懇 になっておくのは私たちにとっても利がある。それに、多少暴れられてもこの者たちがいるから女将たちの手を煩わせる事はない。何より、部屋に空きがないという理由で追い返せば木戸屋の名に傷が付きかねないが、他の客と相部屋にしてでも通したい客なのだと相手に思わせられれば女将の株も上がろう」
こうまで言われると初江も首を縦に振るより他ない。
彼女は番頭に「例のお侍」を二階に上げるよう告げた。
「ほう、この辺りの旗本家のご次男ですか」
大久保は相部屋となった侍に自ら酌をする。
「……まぁ、そんなところで。ああ、誠に失礼ながら酒は控えておりまして」
「例のお侍」とは勿論従重の事だったが、従重はかつて木戸屋では必ず飲んでいた酒を丁寧に断った。
「これは失敬、下戸であられたかな?」
「いいえ……この後寄る所がございまして」
従重は大久保に酌を返しながら曖昧にそう答えると、それとなく大久保を観察する。
(この男、一体何者だ?身なりからして相応の身分ではあるだろうが……)
明らかに自分よりも年上である上に、仮にどこぞの家老などだとしたらうっかり無礼な口は利けない。
「では、ここには飯を食うためだけに?」
大久保の問いに、従重は軽く微笑んだ。
「ええ、そうです」
(酒を飲んで紘子の顔を見に行くなど出来んからな)
紘子の事を思い浮かべるだけで、従重の心は満たされる。
彼が浮かべた微笑は、その証だった。
ひととおり膳を空けると、従重は
「急な相部屋をお許し頂き、かたじけのうございました。先に失礼いたします」
と慇懃に挨拶し大久保らのいる部屋を出る。
大久保もまた笑顔で従重を見送ったが、従重が階段を降り木戸屋を出るや否や、連れのひとりに耳打ちした。
「あの男を洗え」
命じられた男は、黙って頷くと静かに階段を降りていく。
従重が長屋に顔を出すと、紘子は
「従重様……如何されたのですか?こんな夜分に」
と布団から起き出した。
枕元の行燈に灯を入れようとするが、傷の痛みで左腕を上げられない。
「すぐに帰る、いいから何もせず床に入っておれ」
従重は草履を脱がず腰だけ畳に下ろす。
「ただ、お前の具合を見たかっただけだ。その様子だと、少しは動けるようになったのだな」
「はい、お陰様で。長屋の皆さんも色々と助けて下さって……お向かいさんに聞きました、従重様が私の面倒を見るようお願いして下さったと。本当に、ありがとうございます……」
暗がりのせいで、紘子がどんな表情をしているのかは従重には分からない。
だが、紘子の声はひどく弱々しいながらも仄かに嬉しさを醸し出していた。
「長屋の者たちがお前を労るのはお前の人徳だ。俺のせいではない。紘子、養生して早う治せ。俺は、お前の敦盛最期が聞きたくて仕方がない」
「はい……」
それから二言三言従重は紘子と言葉を交わしたが、合間に聞こえる紘子の呼吸が苦しそうなのに気付くと、すっと腰を上げる。
「すまぬ、無理をさせたな。この先もたまにこうして顔を出す故、何か要り用な物があれば遠慮なく申せ。では、ゆっくり休むのだぞ」
「ありがとうございます、お休みなさいませ……」
入口の障子戸を静かに閉め、従重は城に向かって歩き出した。
(紘子の怪我が治るまで、願掛けにこのまま俺も酒を断つとするか)
自然と緩む頬に当たる夜風さえ、今の従重には心地いい。
しかし、そうして心浮き立つ彼は気付かなかった。
長屋の薄壁越しに紘子との会話を大久保の連れに聞かれていた事も、城への帰路を尾行されていた事も……。
この小藩の城下で唯一の料理屋らしい料理屋だ。
「あらまぁ
木戸屋の女将・初江はすこぶる上機嫌で大久保という客とその連れを案内する。
大久保の腰には二本の刀、羽織も袴も織りの良いものを身に付けていた。
年の頃は五十近くであろうか、頭髪にはやや白いものが混じっている。
出で立ちからしてそれなりの役職に就く武士であろうと思われた。
大久保の連れは三人、皆彼と同じく帯刀しているがその風体は大久保に比べると随分小汚く、浴衣か長着か分からぬようなよれた生地の着物を着ていたり埃っぽい袴を履いていたりと、どうにも大久保とは不釣り合いだ。
だが、連れの格好など初江にはどうでも良い。
毎度この者たちの飲食代も全て大久保が気前良く払ってくれるのだから。
「いやいや女将、礼を言うのは此方の方だ。来る度に上手い飯と上手い酒に迎えられ、実に有り難い」
「あら、お上手ですこと」
ほくほくした笑顔を振りまきながら二階の上等な部屋に大久保らを通そうとした時、番頭が初江の元に小走りにやってきた。
「女将、例のお侍がまた……」
途端に初江の顔が曇る。
「『また』って、まさかあの偉そうなお侍かい?ここのところてんで顔を出さなくなって喜んでたっていうのに。まさか、紘子が戻っていやしないかとでも思ってるのかね?」
「……如何いたします?」
「部屋に空きがないとでも言って追い返しておくれよ」
初江が番頭にそう命じた時だ。
「女将、差し出がましいようだが、そのお侍とやらを我々の部屋によこしてはどうかね?」
大久保からの突然の提案に、初江は素っ頓狂な声を上げた。
「何を仰りますか!あんなお侍と相部屋なんかになったら、お食事どころではなくなりますよ!」
大久保は柔和な笑みを浮かべたまま返す。
「私たちは本来江戸で働く身でね、この地の事はまだよく分からぬのだよ。袖振り合うも多生の縁と言うではないか。これを機にこの地の侍と
こうまで言われると初江も首を縦に振るより他ない。
彼女は番頭に「例のお侍」を二階に上げるよう告げた。
「ほう、この辺りの旗本家のご次男ですか」
大久保は相部屋となった侍に自ら酌をする。
「……まぁ、そんなところで。ああ、誠に失礼ながら酒は控えておりまして」
「例のお侍」とは勿論従重の事だったが、従重はかつて木戸屋では必ず飲んでいた酒を丁寧に断った。
「これは失敬、下戸であられたかな?」
「いいえ……この後寄る所がございまして」
従重は大久保に酌を返しながら曖昧にそう答えると、それとなく大久保を観察する。
(この男、一体何者だ?身なりからして相応の身分ではあるだろうが……)
明らかに自分よりも年上である上に、仮にどこぞの家老などだとしたらうっかり無礼な口は利けない。
「では、ここには飯を食うためだけに?」
大久保の問いに、従重は軽く微笑んだ。
「ええ、そうです」
(酒を飲んで紘子の顔を見に行くなど出来んからな)
紘子の事を思い浮かべるだけで、従重の心は満たされる。
彼が浮かべた微笑は、その証だった。
ひととおり膳を空けると、従重は
「急な相部屋をお許し頂き、かたじけのうございました。先に失礼いたします」
と慇懃に挨拶し大久保らのいる部屋を出る。
大久保もまた笑顔で従重を見送ったが、従重が階段を降り木戸屋を出るや否や、連れのひとりに耳打ちした。
「あの男を洗え」
命じられた男は、黙って頷くと静かに階段を降りていく。
従重が長屋に顔を出すと、紘子は
「従重様……如何されたのですか?こんな夜分に」
と布団から起き出した。
枕元の行燈に灯を入れようとするが、傷の痛みで左腕を上げられない。
「すぐに帰る、いいから何もせず床に入っておれ」
従重は草履を脱がず腰だけ畳に下ろす。
「ただ、お前の具合を見たかっただけだ。その様子だと、少しは動けるようになったのだな」
「はい、お陰様で。長屋の皆さんも色々と助けて下さって……お向かいさんに聞きました、従重様が私の面倒を見るようお願いして下さったと。本当に、ありがとうございます……」
暗がりのせいで、紘子がどんな表情をしているのかは従重には分からない。
だが、紘子の声はひどく弱々しいながらも仄かに嬉しさを醸し出していた。
「長屋の者たちがお前を労るのはお前の人徳だ。俺のせいではない。紘子、養生して早う治せ。俺は、お前の敦盛最期が聞きたくて仕方がない」
「はい……」
それから二言三言従重は紘子と言葉を交わしたが、合間に聞こえる紘子の呼吸が苦しそうなのに気付くと、すっと腰を上げる。
「すまぬ、無理をさせたな。この先もたまにこうして顔を出す故、何か要り用な物があれば遠慮なく申せ。では、ゆっくり休むのだぞ」
「ありがとうございます、お休みなさいませ……」
入口の障子戸を静かに閉め、従重は城に向かって歩き出した。
(紘子の怪我が治るまで、願掛けにこのまま俺も酒を断つとするか)
自然と緩む頬に当たる夜風さえ、今の従重には心地いい。
しかし、そうして心浮き立つ彼は気付かなかった。
長屋の薄壁越しに紘子との会話を大久保の連れに聞かれていた事も、城への帰路を尾行されていた事も……。