第32話 迫る影・肆

文字数 1,296文字

 寺子屋が終いの刻限となり従重に続き子供たちが帰路に着くと、紘子は内職で仕立て直した着物を依頼主に届けようと外に出た。
(急がないと……じきに暗くなってしまう)
 茜色だった空は、半分近くが藍色に染まりつつあった。
 
 何とか無事に着物を届け、お代をもらった紘子は小走りに長屋を目指す。
(ああ、すっかり日が暮れてしまった……)
 長屋まではまだ少しかかる。
 焦る紘子だったが、ふと自分以外の足音が耳に入り足を止めた。
 振り返り四方を見回すが、人影はない。
(気のせいだろうか……)
 紘子は気を取り直し再び駆け出したが、やはり足音が幾つも聞こえる。
(……気のせいではないっ!)
 紘子は足を速めた。
 反物屋の角を曲がり長屋まで走ろうとしたその時、人影が壁となって紘子の行く手を阻む。
「な……何かご用ですか……?」
 声を震わせる紘子に、人影は何も答えず刀を抜いた。
 日はすっかり暮れて灯りがなければ足下も見えなくなりそうな状態でも、まだ辛うじて鋼に集まり反射する光は見える。
 紘子には、男たちが刀を抜いたという事が嫌でも分かった。

(ひろの奴、こんな時分に何処に行った?)
 その頃、紘子の長屋の前では重之介姿の重実が「先手を打つ」べくうろうろしていた。
 刀の鞘にある椿紋を見せ紘子の反応を見る、その結果次第で次の動きを決めよう……重実はそう考えて長屋に来たのだが、紘子が何処かに行ったきり戻っていない。
(まさか……)
 いつぞや包丁で刺され血に塗れた紘子の姿が思い起こされ、重実は胸が不快に騒ぐのを感じた。
(この時分にひろが出回りそうな所は何処だ……?)
 重実は懸命に思考を巡らせながら四方に視線を飛ばすと、
(木戸屋の方向には行かないだろう。あづまにも行っていない筈だ。そういえば、ひろはあづまで「簡単な裁縫なら出来る」と言っていた……今のあいつの稼ぎは裁縫の内職くらい……仕立てた物を届けに行ったか、裁縫の道具を買いに出たままか……いずれにしても商家が並ぶ方かもしれないな)
 と推測し迅走する。
(よもや、また死ぬような目に遭っていないだろうな……っ)

 しかし、重実の嫌な予感は的中した。
 考えられる紘子の足取りを追うようにして反物屋の角を曲がった重実は、刀を構える男たちが紘子に迫っている場面に遭遇する。
(ひろっ!)
 重実は素早く紘子の背後まで駆け寄ると、彼女の着物の奥襟を掴み一気に引き寄せた。
「やっ……!」
 紘子は短く悲鳴を上げたが、即座に誰かが自分を庇うように背を向けて立った事に気付いた。
 その誰かはすらりと腰の刀を抜いて賊に構える。
 そして、無言で斬り掛かってくる賊の刃を鮮やかに払うと、賊の方を向いたまま紘子の手首を掴んで強く握り、
「走れ!」
 と叫んで駆け出した。
(今の声は……っ!)
 紘子は声の主に確信を得て瞠目するが、手を引く者の気迫に押されて全力で走る。
 走っているうちに、ぽつり、ぽつりと雨粒が頬を叩き始めたが、構っている暇などない。
 息が切れて喉が焼けそうな心地になりながら、紘子は必死で付いていった。
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