第62話 三途の飯屋・参

文字数 1,689文字

「ひろ、ひろっ!」
 重実は何度となく紘子の耳元で彼女を呼んだ。
 呼びながら、必死に考えを巡らせる。
(こいつは何に心を動かされた? こいつが俺にしか見せなかった顔があるだろう? こいつが生きようと、前に進もうと思った瞬間があっただろう? 思い出せ、思い出せ……!)
 その時、ふとイネが用意したであろう握り飯が視界の端に映り込んだ。
(握り飯……)

「とっても美味しいです」

 重実の中に、かつて山間の飯屋で紘子と食事をした時の光景が甦る。
 黒米の握り飯と共に出された川魚の塩焼きを、あの時紘子は美味しそうに食べていた。
(そうだ……あの時、俺は初めてこいつが陰りなく笑うのを見た……それから……)
 触れたいと思う程に美しいと思った、紘子の涙。
 あの日の出来事は間違いなく紘子にとって己の生き方を見つめ直す転機となった筈だ。
(そうだ、富士だ……竹取物語だ……っ)
「……『不死の薬の』……『火をつけ』……」
 当時、ただ紘子の興味を引きたくて一夜漬けで覚えた竹取物語の一節を重実は口にしようとした。
 だが、所詮は付け焼き刃の知識、あれからだいぶ経ちところどころ記憶から抜け落ちている。
「……っ、くそっ」
 すると、苦悶の表情を浮かべる重実の背後から思わぬ助太刀が入った。
「『御文、不死の薬の壷並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ』……でございます、お殿様」
 重実が瞠目して振り向くと、イネが強く頷く。
 紘子の勉強好きに長年付き合わされてきたイネもまた、竹取物語を深く心得ていたのだ。
 重実は頷きを返すと、イネに教わるまま竹取物語を紡いだ。

 一方、飯屋の裏手に回った紘子は、そこに強い既視感を覚えた。
(私は、ここを知っている……)
 記憶を手繰り寄せようとすると、どこからか
『御文、不死の薬の壷並べて……』
 と、竹取物語の一節が聞こえてくる。
(竹取物語……そうだ、私はここで竹取物語の話をした。誰と……? 父上? いや違う、父上とはこのような所に来た事はない。だけれど、この声は殿方のものだ……)
『御文、不死の薬の壷並べて、火をつけて燃やすべき由……』
 次第に大きくはっきりと聞こえ始めたその声は、何度も何度も竹取物語の富士にまつわる部分ばかりを繰り返した。
(この声も……私は知っている)
 父のものとも、紘蓮のような他に見知った男性たちとも違う者の声。
 不思議と心安らぎ、幸いを感じる声。
 やがて紘子はその声に吸い寄せられるように裏手の丘に立つと、周囲に生い茂る木々の合間を覗く。
 景色の最奥に小さく見えたのは……
(あれは、富士の頂……!)

「『御文、不死の薬の壷並べて、火をつけて燃やすべき由』……辺りだったか? 竹取物語で語られる富士の名の由来」

「らしくもない風流めいた真似をしてみたくなってな。お前が本物の富士を垣間見られたら、どれ程喜ぶか……とな」

(そうだ、私は……私はっ!)
 途端に洪水のように思い出が激しく押し寄せた。
 初めて手を引かれ、
 初めて馬に相乗りし、
 初めて共に飯を食い、
 初めて並んで富士の頂を見た、その人は……。

「お前に惚れてんだよ……心底な」

「あ、ああ……っ」
 紘子の目から大粒の涙が溢れ出る。
(何故、何故私はこんなにも大切な人を忘れてしまっていたのだろう! ……いいえ、違う。知らぬ間に封じようとしていたのだ。思い出してしまったら、死んでも未練ばかりが残る故……!)
 その人を思い出した直後、紘子の全身に凄絶な激痛が走った。
 背中を焼かれるような痛み、両足をもがれるような痛み、息が詰まって頭が割れるような痛み。
 あまりの痛みに悲鳴さえ出てこない中、紘子は何かに縋るように手を伸ばす。
(私は願った……貴方様の傍で、共に生きていきたいと! 貴方様の手を、決して放しはしないと!)
 手を伸ばす先から聞こえる、必死な声。

「ひろ、戻れ! 戻ってこい!」
 何かを求めるように不意に上がった紘子の右手。
 重実はその手を取って叫んだ。
「俺の手を掴め! 何処まででも引っ張ってやる!」

 手に確かな感触を得た紘子は、大切な大切な、愛してやまぬその人の名を声の限りに呼ぶ。
「重実様っ!!」
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