第9話 長屋の寺子屋

文字数 2,419文字

 開け放たれた障子戸から、柔らかい陽光が差し込む。
 ここは東町長屋、紘子が住んでいる長屋である。
 九尺二間の部屋よりもやや広い紘子の部屋には、年の頃七、八つ程の子供たちがきゅうきゅうに座っていた。
 紘子の部屋には家財道具らしいものが殆どない。
 あるのは簡素な文机が一つに、小ぶりな行李、そしてささやかな台所道具や裁縫道具程度だ。
 そのため、子供たちは長屋の外から運び込んできたらしい木箱のようなものを文机代わりに並べ、そこで紙に筆を走らせていた。
 風が障子戸を抜ける度に、仄かに墨の匂いも流れる。
「ひろこ、かけたよ」
 仮名を書いた子らが手を挙げ口々に紘子を呼んだ。
 紘子は順番に子供たちの間を回り、
「上手ね」
 と言いながらそれぞれの子に見合った次の課題を落としていく。
 その中に、齢に見合わぬ達筆の女児がいた。
 紘子はその子の脇に座ると、滅多に見せぬ微笑を浮かべる。
「たき、貴女は本当に字が上手」
(どこぞで祐筆にでも雇ってもらえたらどれ程良いか……)
 女児の名は「たき」というらしい。
 だが、たきは行商の子で、城仕えを望める身分ではない。
 祐筆にしてやれたらという望みを、紘子は口に出来なかった。
 それでも、「学んだものは奪われない」という信念の下、紘子はたきに告げる。
「たき、今から私が言う事を書き取ってごらんなさい。いい?『今は昔……』」
 紘子は竹取物語の冒頭をたきに書き取らせた。
 途中で行き詰まれば立ち戻り、新たな漢字を反復させ、そして先に進む……何度か繰り返した後、たきに課題を与え、紘子は次の子に向かう。

 紘子の「私塾」は長屋でも評判になりつつあった。
 「無償で読み書き算術更には裁縫まで身につく」と、ここ半年では長屋の子の大半が顔を出すようになっている。
 学問を身に付けたところで町人の未来は変わらないと誰もが分かってはいたが、ひとときの夢を見たいのか、現実から逃避したいのか、体の良い子守としてなのか、それとも何かが変わるかもしれないという期待を込めてなのか、ここの長屋に住む親は躊躇いなく我が子を紘子に預けた。
 だが、皮肉にもそれは紘子の首を徐々に絞めていく。
 木戸屋での下働きでは賄いきれず、あづまでも給仕の手伝いを始めてかれこれ一年以上、紘子の体は小さな悲鳴を上げ始めていた。
 それでも、紘子は無償で子供たちに勉学をさせる事に拘っている。
 本来平等である筈の学びにお金をかけるものではないという考えが彼女の根底にあるのと……彼女自身が己を労る事を内心で拒んでいるから。
 自分が休む事も、加減する事も、彼女にとっては何故か罪悪感を覚えさせる事だった。

 一刻程経っただろうか。
 子供たちが手習いに飽き始め、紘子も休憩を挟もうと考えたところに、聞き覚えのある声を発しながら長身の男が姿を見せた。
「へぇ、随分賑わってるな」
 紘子は入口に現れた男――重之介に目を丸くする。
「重之介様……っ」
「いつぞやの団子以来だな。明日明後日辺りにあづまに顔を出しても良かったんだが、長屋の前を通りかかったらやけに賑やかだったもんだから気になってな。息災だったか?」
 爽やかな笑みと共に尋ねると、紘子は微かな戸惑いを見せながら
「はい……先日はお世話になりました」
 と頭を下げた。
(何だ?目の焦点が合ってないぞ……)
 お辞儀をした紘子の様子に、重実は違和感を覚える。
 心ここにあらずとでも言うべきか、紘子の発した言葉も視線もどこかぼんやりとしていた。
(こいつ、どこかおかしくしたんじゃないか……?)
 心配する様子はあえて見せず、重之介は当たり前のように長屋に入ると、畳に腰を下ろして近くの文机を覗き込む。
 文机の上には、さっきまでたきが練習していた竹取物語の冒頭を記した紙が置かれていた。
「竹取物語を書き写してるのか。思った以上に高度な事やってるな。で、手本はどこに……?」
 すると、座っていたたきが紘子を指で差した。
「ひろこがしゃべるのを、きいてかくの」
「……は?」
 今度は重之介が目を丸くする。
「お前、物語を諳んじてるのか?」
「は、はい、一応……」
 重之介は感嘆の息を漏らした。
「はぁ……俺の常識の範疇を超えてるな。ちみなになんだが、論語とか、孫子の兵法辺りは心得てるか?」
 紘子は恐縮した様子で答える。
「さすがに、諳んじてはおりませんが……書物さえあれば、読み下す事は出来ます」
(待てよ、漢文に強いのは、僧やわざわざ寺に通って習った武士って相場が決まってるだろ。ひろはやはりただの町娘じゃない。下手をすれば譜代の大名家辺りの妻子かもしれないぞ……)
 そんな推測はおくびにも出さず、重之介は微笑んだ。
「大したもんだな。それじゃ、俺もここの塾生になるか」
「えっ!?」
「日雇いの仕事がない日は、ここに通って子供のお守りの手伝いをするって言ってるんだよ」
「そんな、それはあまりに申し訳が……っ」
 取り乱して立ち上がろうとした紘子は、突如ぐらりと傾いた体を壁に手を付き支える。
「……言わんこっちゃない」
 誰にも聞こえないようにそう呟いた重之介は、子供たちの方を向くと、
「お前たち、ずっと座ってて足も痺れただろう?俺が少し相手してやるから、外に出ろ」
 と声を掛けて立ち上がった。
「そうだな……算術の問題でも出しながらちゃんばらやってやるか。遊びのうちだからな、男も女も関係ない。ほら、行くぞ」
 紘子の返事を伺うかのように視線を向ける子供たちに、紘子は微かな苦笑を浮かべる。
「せっかく仰って頂いてるから、遊んできなさい」
 紘子の許しを得た子供たちは、ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべて重之介よりも先に長屋を飛び出した。
 重之介は、
「今日のところは、俺に任せとけ」
 と紘子に言い残し、子供たちを追う。
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