第95話 砂上の約束・弐

文字数 2,330文字

 夕餉も済み、やがて寝支度を整えた紘子と重実は、重実の部屋で二人きり、敷かれた床の上に向かい合って座った。
「やっと顔色も良くなってきたな。だが、疲れただろう?」
「はい、少し」
 紘子は苦笑交じりに正直に答える。
(いつぞや熱を出して俺に背負われていた時とは大違いだな)
 不調を押して木戸屋の勤めに赴こうとしていたかつての紘子を知る重実には、彼女が本音を口にしてくれることが関係の変化を如実に示しているように思えた。
 嬉しさに、無意識のうちに頬も緩む。
「今宵はゆっくり休むといい。明日も、無理に出歩くことはないぞ。イネや雪と茶でも飲んでのんびりとしていればいいさ」
「重実様は如何されるのですか? お役目がお忙しいのですか?」
 何の気なしに紘子が問うと、重実は言葉を探すように小さく唸った後、徐ろに紘子の手を取り、
「おいで」
 と引き寄せる。
 とん……と体を預けるような姿勢となった紘子を胡座をかいた膝に乗せ、重実は彼女の顔を覗き口を開いた。
「忙しいとまではいかんが、早々に動こうと思ってな。その……お前とのことを進めるために。田邉殿を通じて瀬見守様にお前の身の証を立ててもらって、ゆくゆくはご公儀に婚儀の許しを得るつもりだ。ただ……」
 重実の視線が僅かに紘子から逸れる。
「……そうなると、お前の意に添わないことをせねばならん」
「意に添わないこと……とは?」
 重実は紘子の頭を己の首元に抱き寄せた。
「恐らく、いくら瀬見守様でも素性のはっきりとしない長屋住まいの娘の身上を証すことは出来ないだろう。俺や瀬見守様に出来るのは、お前が確かに八束幹子という旗本の息女で、お前にお家再興の意思がないと証すこと……せいぜいそのくらいだ。故に、ご公儀にはお前を八束幹子として届けなければならん……と思う。ただの紘子として生きていきたいお前の気持ちに、応えてやれないかもしれん」
 緊張からだろうか、喉を閊えさせながら唾を飲むような音が重実の首から紘子の耳に伝わる。
(重実様は、そこまで私の気持ちを大事にして下さっているのか……このお方は、まことに……)
 込み上げる想いをぎゅっと胸に抱き、紘子は視線を落としたまま静かに囁く。
「ご安心下さい。そこに私の真意はありません」
「……え?」
 紘子は、ふっ、と微かな笑息を漏らした。
「私が紘子と名乗ろうと名乗るまいと、八束の家が存続しようと絶えようと、私が八束幹子である事実が無くなるわけではありません」
「それはそうだが、お前は三木助に初めて名乗った時、『紘子』と……」
「はい、今の私は紘子ですから」
「故に、それは八束幹子として生きるつもりはないということではないのか?」
 重実は、松代で紘子が三木助に「紘子」と名乗り、八束幹子の名を一切出さなかったことは彼女の隠れた主張なのだろうと理解していた。
 だが、彼はそれをただの一度も紘子に問うたことはない。
(俺は、勝手に早とちりをしていたのか? 何と間抜けな……)
 唖然とする重実だったが、そう的外れでもなかったことをこの後知る。
「八束幹子の名は、父上母上より賜った大切なものです。ですが、重実様の仰りますように、私はこの先紘子として貴方様のお傍で生きていきたいのです。重実様との思い出は、全て『紘子』が紡いだものです故。紘子として貴方様のお傍にいるために八束の名が役に立つというのなら、きっと父上母上も笑ってお許し下さると思います」
「ひろ……」
 紘子にとっては、重実との未来に比べれば己が誰であるかなど些末なことだったのだ。
 彼女の真意は、重実の傍にいられる己でありたい、ただそれだけなのだ。
 ようやくそれを悟った重実は、紘子が一層愛おしく見えてならない。
「……分かった。ではその手筈で進める」
「ありがとうございます。ところで、重実様……」
「ん?」
 紘子は上目遣いに重実を見る。
「明日ですが、長屋に出掛けてもよろしいでしょうか?」
「明日? お前疲れてるんじゃ……まぁ、お前が行きたいなら止めはしないが、一人では行かせられん。すまんが、俺はおそらく体が空かないだろうから、せめて雪か……甚だ不本意だが従重を連れていけ」
 重実はどこかふて腐れた調子でそう言った。
「不本意……なのですか? 従重様がご一緒ならむしろ重実様も安心なのでは……」
(こいつは何故こうも男心というものが分からんのか……)
 重実の顔は途端に苦虫を噛み潰したように歪む。
「あのなぁ……俺だって男だぞ。たとえ相手が弟でも、好いたおなごを連れ回されて良い気はしない」
「それは……」
(……もしや、妬いていらっしゃる? どうしよう、このような重実様を見ていると、どうにも面映ゆくて心が浮ついてしまう)
(こいつ、分かってるくせに……)
 重実は今度は露骨に紘子から顔を逸らした。
「そんな目で見るな……妬いちゃ悪いか」
「いいえ……」
(……いけないっ。重実様は本気なのだ、それを愛らしいと思っては無礼だ……けれども、どうしよう、心から好いているお方に妬かれることがこれほど嬉しいとは……)
 顔を俯けた紘子の耳がかあっと赤くなったのを見て、重実は耐えがたい衝動を覚えながらも
「ほら、体が冷えないうちに床に入れ」
 と、掛け布団を捲る。
 そして、灯りを消し、後れて紘子の隣に滑り込むと、重実は彼女の背に腕を回し抱きしめた。
「今宵はもう他の男の話は終わりだ。これより先は、俺のことだけを想ってくれんか」
「私は、いつでも貴方様だけを想っています……」
「……っ」
 重実は思わず呼吸までひとつ忘れた。
「……ああ、俺もお前だけを愛している」

 口づけが深く深く蕩けていく……更けていく夜とともに。
 共に歩む未来に影が差すことはないと、この時の二人は疑いもしなかった……。
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