第94話 砂上の約束・壱

文字数 1,926文字

 頬の隣を抜けた風に、従重は思わずぶるりと肩を跳ねさせる。
「……いかん。随分と冷え込んできた。これ以上お前をここに留めては兄上に何と言われるやら。紘子、そろそろ戻れ」
「お気遣い頂き、ありがとうございます。それでは……」
 紘子はゆっくりと立ち上がり従重の羽織を整えると、彼が袖を通せるよう広げた。
(斯様なことを何の(てら)いもなくするのだな、お前は……)
 従重は切ない笑みを浮かべながら紘子の持つ羽織に袖を通す。
(やはり、お前が俺の妻でないことがどうにも口惜しい。だが……良いのだ。俺が何より望むのは、お前がここで心から幸いを感じて生きていくこと故な)
「あ……従重様」
 紘子が何かを思い出したかのように従重に声を掛けた。
「ん?」
「雪のことも……まことにありがとうございました。雪に聞きました、従重様が雪を見つけてこちらに召して下さったと」
「礼を言われるほどのことではない。あれと知り合うたのも……偶々(たまたま)だ」
 かつて何度も肌を重ね合わせた上に身請けしたとは到底言えず、従重は後ろめたさに紘子から視線を逸らす。
「ですが、私にとって雪は大切な恩人なのです。ここで彼女に会うことが出来て、私もイネもどれほど嬉しく思っているか……どうか、何かお礼をお返しさせては頂けませんか? 今の私に何がお返し出来るかは分かりませんが……」
 飯盛女と床を共にしても気休め程度にしか温まらなかった従重の心に、紘子は言葉だけでいとも簡単に温もりを与える。
 ……いや、温いのは言葉ではなく、言葉に宿った彼女の真心なのだろう。
(惚れた弱みとはよく言うたものだ……)
 従重は苦笑混じりに紘子に視線を向けた。
「では、たまにで良い。お前の敦盛最期を聞かせてほしい」
「はい、喜んで」
 紘子が見せる笑顔に、従重は眩しげに目を細めた。

 紘子が従重と別れた頃、重実は自室の前をうろうろしていた。
「お殿様、まるで熊のようでございますなぁ」
 隣室から現れたイネがそう言って苦笑いする。
「イネ、お前は心配ではないのか? いくら雪が供をしているとはいえ、あんな顔色をしていたひろがこうも戻らんとは……」
 重実がそこまで言いかけた時、人影が二つ、廊下を曲がって現れた。
「ひろっ、あまり心配させてくれるな」
 人影は紘子と雪で、重実はその姿を見るなり早足で寄り、イネらの目も憚らず紘子の手を取る。
 しかし、紘子の顔を覗き込んだ直後、重実の眉間に皺が寄った。
(この香の匂い……)
 微かに鼻先をくすぐった匂いは従重が日頃焚いている香のもので、重実は心奥が微かにささくれ立つような不快感を覚える。
「……従重と会っていたのか?」
「はい、お礼を申し上げたくて、雪に案内を」
「そうか……」
 紘子には何かを隠すような素振りはなく、彼女の口調にも不自然なところはない。
 しかし、黒目勝ちの瞳を囲う白磁のような白目には僅かに朱が走っていた。
(こいつ、今の今まで泣いてたんじゃ……?)
「ひろ、あいつに……何か言われたか?」
 問いかける顔は無意識のうちに険しさを覗かせる。
(重実様は、何故こうも訝しんでおられるのだろう?)
 紘子は首を傾げた。
「いいえ……何か気掛かりでもありましたか?」
「……あいつに泣かされたのかと思って」
 重実は紘子の目尻に親指でそっと触れる。
 ひんやりとした感触が、涙に濡れていたことを彼に伝えた。
(私のことを案じて下さっているのか……)
 じんわりと頬が温まっていくのを感じながら、紘子ははにかんだような笑みを浮かべる。
「久方ぶりにお目に掛かった従重様が、まことお優しく……。何度も私に謝って下さり、体を気遣って下さり……恥ずかしながら、それで感極まってしまったのです。そもそも、先に私は貴方様のお背中でみっともなく泣きじゃくっていたではありませんか」
「あ、そうだったな」
(そうか、従重はひろにはそれほど優しいのか……いや、あいつはそういう奴だったな)
 従重との関係が氷解したことで、重実には今まで見えていなかった従重の一面が多少は見えるようになっていた。
 荒んだ行いも、兄への不敬も、全ては繊細で敏感な心が傷付いた故のことで、本来の彼が正しき方向にその心を開けばどこまでも愛情深い。
 それに気付くまで、思えば随分とかかったものだ。
(従重相手に悋気を起こして目を曇らせるとは……我ながら情けない)
 紘子の笑みで不快感を払拭した重実は、彼女の肩に手を添える。
「そろそろ夕餉だが、具合はどうだ? 食えないようなら無理せずとも……」
「ありがとうございます。ですが、大事ありません。雪と歩き回ったおかげで随分と気が楽になりましたし、何より……」
 紘子は柔らかく笑んで重実を見上げた。
「……重実様と食べる食事は、とても美味しいです」
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