第42話 火種・弐

文字数 3,446文字

「お久しゅうございます、幹子様」

 ……一瞬、時が止まった。
 聞き覚えのある男の声に、己の本名。
 どくどくと激しく脈打つ心臓の音を鼓膜の奥に感じながら、紘子はゆっくり、ゆっくりと声がした方を向く。
 剣呑に細められた双眸も、冷酷に歪む薄い唇も、紘子の見知った者のそれだ。
(――吉住!)
「あ……っ……」
 喉が詰まり、顎が小刻みに震え、手先が一気に冷えて感覚を失っていく。
 吉住は一歩また一歩と紘子に近付くと、腕一本分の距離を空けて止まった。
「よもや、この吉住の事をお忘れではございませんでしょうな?」
 吉住はニヤリと笑って続ける。
「私がここに参った用件は、お察しでございましょう? さあ、私と共にいらして下さい……手荒な真似は、したくないのでね」
(恐れるな……逃げてはいけない、逃げては……)
「……私は、鬼頭様を手に掛けてなどおりません」
 紘子は唇を震わせながらも抵抗を見せた。

 しかし、吉住は余裕の面を崩さない。
「言い訳は後程じっくりとお伺いしますよ」
「そうまでして私に罪を着せるのは何故ですか……私の両親の首まで刎ねて」
「何故も何も、貴女様以外に下手人などおりませんでしょう。ご両親の事は、まぁ、是非に及ばずにございます。殿を手に掛ける余所者とそれに繋がる者を始末するは、鬼頭家ひいては朝永藩のためでございましたからね。そもそも、こちらには貴女様の簪という証の品まである。言い逃れは出来ませんぞ」
 簪という言葉に紘子は目を剥いた。
「貴方は、本気でそんな……! あの頃の私には簪どころかそれを差す髪すらなかった事、よもや知らなかったとでも言うつもりですか!」
 鬼頭家の正室として存在していた間、紘子は一度も髪を結わえる事さえ出来なかった。
 身の回りの品を理不尽に召し上げられ簪など持ち合わせていないばかりか、そもそも差せる頭ではなかった。
(それでもこの男は簪が私の物だと(うそぶ)く。それはつまり、私が下手人でない事を知った上で私に罪を着せようとしているという事。そこまでして私を下手人に仕立て上げたい理由は、やはり……)
「……吉住、貴方は真の下手人を知っているのですね? そして、その者は私に罪を着せてでも庇い立てしたい人物、つまり――貴方を含め旧朝永藩士の誰か」
 この二年の間、そう推理した事は何度かある。
 だが、確信が持てなかった。
 己が仕える藩主を手に掛け、しかも跡取りがなく藩が取り潰しとなれば己も路頭に迷う。
 そのような危険を背負いながら藩主の命を奪おうとする者などおろうか、と。
「何とお粗末な。それが才色兼備の誉れ高し八束の姫君のなれの果てでございますか」
 挑発的に口端を吊り上げる吉住を見て、紘子の中で推理が「確信」に変わる。
(事の誤りを突けぬ者は人の心を突いて惑わす……昔、父上がそう教えて下さった。吉住は私の推測を否定出来ず、答えに窮したあまり私そのものを貶めこの問答から逃れようとしている。間違いない、真の下手人は朝永の者、そしてそれを隠そうとする吉住もまた、事情を深く知っている……)
 気付かぬうちに、紘子の中では吉住に対する恐怖心よりも怒りの方が勝っていた。
 静かなる怒りが彼女の冷静さを保ち、この状況をどう打破するかを紘子に考えさせようとしてくれる。

 しかし、吉住には「切り札」があった。
「幹子様、清平従重様をご存知ですね?」
「……っ!?」
 吉住の口から何の前触れもなく突然出てきた名前、それも普通に考えれば到底出てきそうにない名前に、回り出していた紘子の思考がぴたりと止まってしまう。
 動揺を見せた紘子の前で吉住の目が細められた。
「実は私、従重様とは少々顔馴染みでしてね。どのようなお方なのか気になりまして、従重様の事をお調べさせて頂きましたよ。峰澤藩主の弟君のようですが、従重様は大層貴女様に入れ込んでおられるご様子。あの様子では、貴女様が夫殺しの下手人であるなどとは夢にも思っておられないのでしょうな……」
「……何が言いたいのですか。そのような脅しに屈するつもりはございません」
 紘子は懸命に平静を装う。
 その様子が、余計に吉住を勢い付かせた。
「ええ、そうでしょう。貴女様はご自身を潔白と思い込み、信じて疑わないご様子。今更貴女様の素性を従重様に明かすと申しても、貴女様には然程堪えませんでしょう。ですが……幹子様、私と関わり合いになった時点で、従重様はもう袋の鼠なのですよ」
 嫌な予感に紘子の肌が粟立つ。
「……どういう意味ですか」
「鬼頭家がお取り潰しになり路頭に迷った我々に、さるお方が手を差し伸べて下さりましてね、私は今そのお方の命を受けて動いております。ただ……そのお方は少々危うい事をなさろうとしています……ご公儀に盾突くような、ね。そして、じきに従重様もそのお方と目通りされる事でしょう。大名家の者がご公儀に背くようなお方と関わりを持っている……そのような噂が立てばどうなるか、聡明な貴女様ならお分かりになりましょう? 貴女様が今すぐ黙って私に付いてくると仰るのであれば、従重様をそのお方に引き会わせずに差し上げてもよいのですが……如何いたしますか」
 謀反を企む者と関われば、忠勤の大名家の子息であっても裁きを受ける。
 しかも、それは従重ひとりの問題にとどまらず、兄である重実はもちろん、重実が当主である清平家の存続をも脅かす事になる。
 紘子はいよいよ顔から血の気が引いた。
(私のせいで、重実様が追い込まれるような事があってはいけない……けれど……)
 血の下がった頭がぼうっとして、目の前がくらくらする。
 絶句する紘子に、吉住は
「覚悟を決められましたか」
 と淡々と、しかし侮蔑に満ちた口調で訊ねた。
「覚悟……?」
 紘子は冷えた眼差しで吉住を見据える。
(黙って首を差し出す覚悟という事か……けれど、生憎私が決めるべき覚悟は、最後の最後まで足掻く事。この首、お前などにただで差し出すものか。重実様と約束したのだ……私は足掻くと)
 重実との約束が辛うじて紘子の心を支えていた。
(……私が黙って出頭すれば従重様を見逃すなど、この男に限ってあり得ない。この男は、私の首を刎ねて旧朝永藩の威信を回復する事と、従重様を「人質」にする事の一挙両得を狙う筈。吉住の思い通りになどさせてはならない。足掻いて、足掻いて、私に出来る事を考えるのだ……清平の御家に傷を付けず、従重様をも守り、私の潔白を証明する方法、そのために私に出来る事。その上で、万策尽きた時に清平の御家だけでも守る方法を……)
 紘子は一度静かに瞼を閉じ、数秒黙する。
 そして、再びゆっくりと瞼を開けると、
「……四半刻で結構です、長屋のお稲荷様の祠を掃除する(いとま)を下さい。今日は私が掃除の番に当たっているので。掃除をしなければ、私に何かあったのではないかと長屋の人たちが訝しみます。それは貴方にとっても困るでしょう」
 と告げた。
「まぁ、それくらいならば」
 吉住は仕方なさげにそれを許した。

 紘子は無言で部屋に入り、そっと文机から離縁状と椿の紋が入った懐剣を取り出す。
 離縁状を包みごと裏返し何やら手早く筆を走らせた後、懐剣と共に懐に隠した。
 そして、東町長屋の最奥に佇む小さな祠の前まで来ると、その扉をこっそりと開け、掃除をするふりをして証文と懐刀をしまい込む。
(吉住の事だ、私が長屋を出た後手下に部屋を検めさせるに違いない。離縁状を見つけられ奪われるような事があっては元も子もない。この祠ならいくら手下でもひっくり返す事はしないだろう。あとは長屋の誰かが気付いて離縁状と一緒に峰澤のお役人に届けてくれれば、やがては重実様のお手元に届くやもしれない。ひどく危うい賭けではあるけれど……賭ける価値はある。お手元に届けば重実様が何らかの手を打って下さると信じて、私はそれまでの間刻を稼ごう。この策なら、仮に重実様のお助けが間に合わずとも……)
 ……その先は考えるのも怖い。
 だが、仮に己の命が尽きた後であったとしても、離縁状が手に入りさえすれば重実なら上手く御家を守る方法に気付くだろうと紘子は信じて疑わなかった。
 それさえ叶えば……。
(あれ程聡明な重実様なら、きっと……)

 その後、紘子は東町長屋を去った――その姿を誰に見られる事もなく。
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