第99話 袋小路・弐

文字数 1,990文字

 親房が帰り、重実もまた客間から自室に戻った。
 道中の廊下ですれ違う家臣や女中はいつもと変わらぬ様子の「殿」に頭を下げ、彼が通り過ぎるのを待ち、やがて持ち場に戻っていく。
「ふっ、はは……はははっ」
 自室に入り、後ろ手に障子を閉めた重実の口から乾いた笑い声が漏れた。
「これが、『八束の血の呪い』か」
(吉住め……言ってくれる)

『くっ、くく……っ。先を……見通せぬ……若造が……。お……まえは、全てを……失うぞ……』

 吉住の今際の際が重実の記憶にまざまざと甦る。
(吉住には見えていたんだ……上様の代替わりに加え由井正雪らによる謀反が起ころうとしていたこの時分に、濡れ衣が晴れた上に八束の娘が生きていると明らかになれば、公儀と公家衆の間で奪い合いが始まると。たかだか石高一万石程度の大名ではひろに手が届かない、それでもひろと一緒になろうとすればとんだ大火傷を負うと。さっきは田辺殿にああ言ったが、ひろを連れて逃げ切れればそれで済むという話ではない)
 家督を従重に譲り紘子を連れて城を出たとして、その先に何が待ち構えているか……いくら重実が当主の座を退いたとしても清平家は「身内の不祥事」により所領減封どころか尾張公の不興を買って改易となるかもしれない。そうなれば家督を譲られた従重はもちろん、仕える家臣たちも路頭に迷うことになる。
 更に、逃げた側とて無事では済まない。親房の言ったように、尾張公は面目を保つためにも重実と紘子を放ってはおかない筈だ。まさに地の果てまで追われ、逃げ切ることは叶わぬだろう。捕まれば恐らく重実は死罪、利用価値のある紘子は重実と一緒に死ぬことさえ許されず無理矢理に八束家を再興させられ、意に沿わぬ男と夫婦にさせられる。
 そこまで想像して、重実は奥歯を強く噛みしめた。
(それじゃひろにとっては生き地獄だ)
 重実はその場でずるずるとへたり込み、頭を抱える。
「くそっ……何か手はないのか」

 その晩、重実は何食わぬ顔で夕餉を口にするが、紘子だけはそんな彼に違和感を覚えていた。
(何故だろうか……先程から、重実様と僅かに視線が噛み合わない)
 いつもの彼なら、紘子を見る時は必ず真っ直ぐに目を合わせる。
「重実様、田辺様はお変わりありませんでしたか?」
 己の気の所為か否か……試すようなことは少々気が引けるものの、紘子は他愛ないことを尋ねて重実の反応を見た。
 しかし……。
「ん? ああ、相変わらずだった」
「そうですか」
(やはり、私を見ているようで見ていない……)
 どこか上の空とでも言うべきか、目の前の紘子以外の何かに彼が気を取られていることは明らかだ。
(田辺様と会われる前はあのようなご様子ではなかった。田辺様との間で何かあったのだろうか? 気がかりではあるが、重実様の方から打ち明けて下さらないことに、果たして私はどこまで立ち入ってよいものか……)
 もやもやと葛藤を抱えながら紘子は汁椀を飲み干して膳に置く。
 そんな紘子が浮かべる気遣わしげな表情にさえ、重実は気付かない。

 そして、紘子の気持ちを察することなく……重実は彼女を抱く。
 とっくに寝入る夜更けになっても、重実は紘子を放さない。
 肌に指先を滑らせながら重実の口から何度も囁かれた「愛している」という言葉が、ひどくもの悲しい響きを含んで紘子の耳に流れ込み、その度に紘子は胸を締めつけられる心地そのままに彼の名を呼んだ。
(……朝?)
 いつ途切れたか定かではない意識がふと戻り、紘子は気怠い瞼をゆっくりと上げた。
 薄暗い室内を見回して冬の長い夜がもうじき明けようとしていることに気付いた紘子は、重実を起こさないようそっと褥から這い出ようとするが……
「何処に行く」
 と背後から抱きすくめられ、身動きを封じられる。
「重実様……?」
「まだ夜明け前だろう。行くな……頼むから、何処にも行くな」
 うなじの横に触れた重実の唇が、発せられた声が微かに震えていることに気付き、紘子は身を捩るようにして振り向いた。
「あ……」
 親房と会ってからというもの、閨事の最中でさえ絡み合わなかった重実の視線。
(あれから初めて……目が合った)
 ようやくぶつかり、真正面から見ることのできた彼の瞳は、薄暗がりの中でも分かるほど潤んでいる。
 その目はまるで、何かに怯え必死で縋りつこうとする幼子のようだった。
 だが、その理由を考えようとするよりも先に、重実が紘子の唇を貪り、直したばかりの襦袢の襟をはだけさせる。
「お前の温もりが欲しい……お前がここにいると、俺の傍にいると、感じていたいんだ」
(重実様が何をこうも恐れているのか分からない。けれど、これが重実様の偽らざる本音であることは分かる。これ程までに私を求める今の重実様から手を放すなど、私にはできない)
 呻くように紘子への想いを口にして彼女の胸元に顔を埋める重実の背に、紘子は精一杯両腕を回した。
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