第98話 袋小路・壱

文字数 3,439文字

 城の空き部屋を利用しての藩校開きを目指し、紘子が連日平包みを縫うこと半月。
 彼女の部屋の隅に畳んで積まれた色とりどりの平包みを見て、重実の口元が緩んだ。
「よくまあたったの半月でこれだけ仕上げたな。薄手のものと厚手のものがあるようだが……これは何故だ?」
 品定めをするように両の手にそれぞれ違う平包みを載せながら重実が問うと、紘子は縫い物の手を止めて答える。
「常に懐に入れて持ち歩く方にはかさばらぬよう薄手のものを、日頃重い物をよく運ばれる方には丈夫な厚手のものをお出ししようと思うのです」
「へぇ……」
 紘子を捉える重実の流し目がにぃっと細められた。
「佐原屋の丁稚の件といい、全く俺の妻は学問の才だけじゃなく商いの才も持ち合わせている。改めて、俺は過ぎたおなごに手を出してしまったかもしれん」
「そのようなことは――」
 慌てて否定しようとする紘子の前に膝を着くと、重実は
「かと言って今更何処に返す気もないがな」
 と囁き、彼女の頬に軽く口づける。
「んなっ……な、何をなさるのですかっ」
「いや、お前がどうにも愛らしくてな」
「ひ、人の目がありましょうに……」
 紘子は首筋まで赤く染めて俯きながら言ったが、重実はそれさえ面白がり、
「ん? 何処に人の目があると?」
 と、わざとらしく左右に首を振って人を探す仕草をしてみせた。
「お戯れが過ぎますっ」
「ははっ、すまんすまん。だが、俺は嘘は吐いていないぞ。俺がお前への想いを偽ることなどないと、お前なら分かるだろう?」
 一つ下がった声音で好いた男にそう問われれば、大抵の女は頷くより他あるまい。
 紘子もまた、例外なく
「……はい」
 と、為す術なく首をこくりとさせる。
(ああ……参ったな、離れがたくてしょうがない。つくづく泰平のご時世に感謝だ。戦、戦の直中であったならば、如何程この想いを押し殺さなければならんことか)
 明日、明後日と続いていくであろう、今この一瞬に感じる幸せ。
 重実は紘子の頬を撫でながら、
「……夜が待ち遠しい」
 と甘い囁きを落とした。

 言葉の意を察した紘子が絶句して目を泳がせだしたところに、
「姫様、火鉢を拝借してまいりましたよ」
 とイネが障子を開ける。
「年の瀬が迫るとこの辺りも冷え込みますなぁ。この調子ですとじきに雪も降り出すのではないでしょうか……っと、おやおやお殿様、こちらにいらっしゃりましたか」
 ぎこちない空気を醸し出す紘子とそんな彼女を楽しげに見つめている重実に気付き、イネは重実に同情の眼差しを向けた。
「姫様とご一緒のところに水を差すようでございますが、ご家老様がお殿様をお探しでございましたよ。今しがた田辺様が江戸よりいらしたとかで」
「田辺殿が? 文を寄越すでなくわざわざここに?」
(大方ひろとの婚儀の件だろうが……何か妙だな)
 重実の眉間に、微かな皺が立つ。
(俺は田辺殿に文で伺いを立てた。それから半月、音沙汰がないと思っていたら直に足を運ばれた……何故だ?)
 人の第六感というものだろうか、重実は理由の分からぬ胸騒ぎを覚えた。
「まあいい、会って話せば分かることだ。ひろ、イネの言うように今日は冷える故、あまり根を詰めんようにな」
 内心の不安を悟られぬよう平静を装いながらそう言い残し、重実は紘子の部屋を出る。

「お待たせしました、田辺殿」
 重実は急ぎ足で客間に入ると、下座で待つ親房の前に腰を下ろした。
「江戸は年の瀬を控えてお忙しいのではありませんか? 斯様な時に峰澤まで……何か火急の用でも?」
 重実がそう切り出すと、親房は待っている間に出されていた茶を一気に飲み干し、緊張した面持ちで口を開く。
「重実……まずいことになった」
「まずいこと、とは?」
 重実は、己でも信じられないほど冷静に親房に問うた。
 どうしようもなく嫌な予感がぞわぞわと胸の内を這っているというのに、何故こうも淡々と言葉を口にしているのか、彼自身も分からない。
 そんな重実の様子に、親房も一時(いっとき)息をするのを忘れてしまう。
「……すまぬ、重実」
 ようやく息を吐き出した親房は、焦点の定まらぬ目で謝罪を口にした。
「田辺殿が謝るようなことはありますまい。俺とて、公儀がそう易々と婚儀の許しを与えるとは思っていません。ひろは旗本家の娘とはいえ実家は取り潰し、今は士分も何も無き身です故。それをどうにかするのに何らかの根回しが必要とあらば、こちらはいくらでも話を聞きますよ」
「違うのだ……違うのだ、重実」
 なだめるような重実の口調が余計に親房の胸を締めつける。
「尾張公が入り込んできた」
「は?」
 重実は、親房の口から唐突に飛び出した言葉の意味を理解できない。
「尾張公が、伊豆守様を通じて命じてきた……遠縁の男子を八束家に、と」
 ここまで聞いてようやく重実は親房の一言を、親房がわざわざここに来た理由を、理解した。
「……馬鹿な」
 そうは口にしたものの、重実の口調はまるで他人事のように落ち着いている……いや、あまりの衝撃に己のこととして受け入れられていないと言った方が正しいかもしれない。
「ひろには御家再興の意思はないと伝えた筈。公儀にとって、今更八束の名に何の価値があると――」
「――それは私も訴えた!」
 親房は畳の上で両の拳を握り、悔しげに俯いた。
「だが、伊豆守様曰く、一人娘の幹子殿が存命ならば、婿を迎えて御家を再興させるのが筋であると。そして、八束の家と名は公家衆に奪われる前に徳川が握らねばならぬと。幹子殿の父は武家にも公家にも顔が利き、双方から厚い信を得ていたそうだ。その娘となれば公家衆が拠り所とし、公儀の足下を脅かすために利用する恐れがある。故に、否応なく御家を再興させ、公家衆への牽制とする……と」
「それで、尾張公に縁のある家の三男坊をひろにあてがい八束家を再興させよ、ということですか。まあ、一理あると言えばあります。痛いところを突かれたやもしれませんな」
「お前、何をそう悠長に――」
「――悠長に構えているように見えますか?」
 重実にそう返されて、親房は重実の唇が震えだしていることに初めて気付く。
「……いや。すまない、ここでのお前は一国の主でなければならないのだったな」
 噴出しそうな激情を必死に抑えてあくまで冷静に淡々と言葉を紡ぐ重実の姿に、親房はきゅっと唇を噛んだ。
 そして、己を落ち着かせるように鼻から息をひとつ長く吐くと、再び口を開く。
「この半月、私は佐野の兄や父にも相談し、何か策はないかと話し合っていた。兄は現左山藩主で佐野家当主という立場がある故、幕命には逆らうなと……。一方、父は何とか伊豆守様のお心を変えられぬかと文で懇願して下さったが、伊豆守様は首を縦には振らなかった。これに肩を落としたのか、父の容態は一気に悪化し、今や明日をも知れぬ状態だ。医者からも、次の桜どころか梅さえ見られるかどうかと……。ただ、伊豆守様は幹子殿を預かっているお前に婚礼の支度を進めさせるよう命じている。つまりは、幹子殿の身柄はひとまずこのまま峰澤に置けるということだ。故に、私は幹子殿が長旅の疲れで伏せっており暫くは婚礼の支度もできないと偽りを申して時を稼いでいる。しかし、それもあとひと月程度が限度だろう。このひと月のうちに何か策を取らねば……」
「ひと月ですか……」
 重実は苛立ち混じりのため息を吐いた。
「瀬見守様のお力添えが叶わぬとなれば、あとは夜逃げくらいしか思いつきませんね」
「尾張公の面目を潰したと言われて一生追われるぞ。捕まれば死罪は免れまい」
「冗談ですよ。とはいえ、こんな馬鹿げた冗談しか思いつかないのが真のところですがね。この一件で他に力を貸してもらえそうなところは松代藩ですが……」
 そこまで口にして、重実は親房と顔を見合わせる……が、数秒の無言の後二人は全く同じようにかぶりを振った。
「『天下の飾り』を擁する松代が幕命に背くようなことに加担するわけがないですね」
「ああ、佐野の兄と同じだろう」

 再び重い沈黙が二人の間に流れること、暫く。
「……かなり厳しいが、私は他に手がないか粘る。お前も、何か妙案を思いついたらすぐに知らせてくれ」
「分かりました。ただ、これだけは先に伝えておきます」
 居住まいを正し、重実は暇乞いし下がろうとする親房を見据えた。
「いざとなれば俺はここを従重に譲って、ひろを連れて夜逃げでも何でもします……いくら追っ手が来ようとも。二度と手放さんと、神仏を敵に回しても守ると、ひろに約束しましたから」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み