第80話 左山奇縁・壱
文字数 1,920文字
松代を出立して十日あまり。
紘子たち一行は、ゆっくりとした旅程ながらも着実に峰澤に近付いていた。
「そろそろこの辺りで江戸に繋がる街道から外れて峰澤方面に向かう。もうじき帰れるぞ」
馬上ではいつものように重実が紘子を前に乗せ、正面を向いたまま会話する。
「はい……帰ったら、心配をお掛けした方々にお詫びして回らなくては。あづまの女将さんにご家老様に、従重様に……」
「ははっ、お前らしいな。そうだなぁ……あづまの海老天蕎麦、今度は二人で食いに行くか」
談笑する紘子と重実の傍らで枇杷丸を引く小平次は、意外にもイネと意気投合していた。
「何と!? それでは、紘子殿はあのように見えて幼き頃は随分と……」
「ええ、幼き頃の姫様はそれはもう怖い物知らずで、私がきのこを採りに藪に入れば同じく藪に入り、水辺の山菜を採りに沢に下りれば同じく沢に下り、私がお止めしても平気でどこまでもついていらっしゃるのですよ。足を滑らせて沢に落ちた時は、いやはや私の心の臓が止まるかと……まぁ、幸いにもくるぶしが濡れる程度の浅い沢でございましたけれど」
「ああして殿としとやかにお話しされているお姿からは想像も出来ません……」
イネは目尻の皺を深めて返す。
「ふふふ、姫様はとかくお心が素直なのでございます。亡き旦那様や奥様は、姫様が生まれながら澄んだお心をお持ちであるのに気付いて、それはそれは大切にお育てになっておいででした。お作法も手習いも、厳しく躾けられる時もございましたが、お二人はそれが生きる上で必要なことだと、必ず姫様の財になると、姫様が納得されるまで何度も丁寧に諭されて……。素直な子であるが故、嘘偽りや誤魔化しで接してはならぬと私もよく旦那様と奥様に言われたものでございます」
その頃、三木助は一行の少し先を進み道中の安全を確認していた。
(出立の折にはどうなることかと懸想したが、紘子殿は愚痴のひとつも零さず嫌な顔ひとつせず我々と歩まれている……大層真面目で芯の強いお方だ。加えて、失態を犯した私をあのように……)
「然程思い悩むようなことではありませんから!」
「これは御公儀からのお役目を受けての旅ではありません、故に重実様のためにお部屋を用意出来ずとも、重実様はお気になさらないでしょう。それに、私もイネも、殿方と相部屋で宿に泊まったことが何度かあります。一晩くらい、どうということはありません」
「新たな宿を探したり、無理を言って部屋を都合したりなどすれば、余計な銭が掛かります。そのようなことに銭を使うくらいなら、ご家老様に何か良い土産を買って差し上げましょう?」
紘子に腕を取られながら励まされた時のことを思い出し、三木助の口元がだらしなく緩む。
「そのうえ気立てもまこと穏やか、裁縫も達者で器量も良し……はぁ、殿がお羨ましい……」
(聞けば齢は私の一つ下……殿よりむしろ私と近いではないか。殿より先に私が紘子殿と巡り逢っていたら、如何していただろうか……っと、いかんっ、私は何と下賤なことを!)
まがりなりにも主君の思い人に横恋慕とは家臣としてあるまじきことである。
我に返った三木助は悶々とする心を振り払うようにぶんぶんと首を横に振った。
(全く、己が恥ずかしい。私はやがて父上の後を継ぎ峰澤の家老となり殿をお支えしなければならぬ身、この程度のことで心を乱していては何とする)
己を強く戒めながら歩を進めた三木助だったが、少しばかり歩いたところで立ち止まらざるを得なくなる。
「こ、これは、何と……」
三木助の眼が、倒れる男の姿を捉えた。
地面には男のものと思われる血が滲んでおり、男は虚ろな目で浅い呼吸を繰り返している。
「如何した!」
三木助は男に駆け寄り男に声を張り上げたが、男とは視線が全くかち合わない。
(こ、これは大事である、殿にお知らせしなくては!)
「良いか、今助けを呼んでくる。それまで気張られよ!」
三木助は慌てて立ち上がり重実たちの元に全力で駆け戻った。
「殿! 殿ー!!」
前方から血相を変えて走ってきた三木助に、重実は
「今度は何だ? また宿でも取り損なったか?」
と冗談を口にしながら枇杷丸を止める。
「一大事にございます! この先、人倒れがございます!」
「……なに?」
重実の顔から一瞬にして笑みが消えた。
「小平次、イネとひろを頼む。三木助、案内しろ」
重実は枇杷丸から降りて三木助と共に走る。
「小平次殿、イネ、私たちも少々急ぎましょう」
「はっ。では紘子殿、しかと枇杷丸にお捕まり下さい。イネ殿は……」
「何の! このイネ、こう見えてまだまだ健脚にございます」
「では、少しばかり足を速めます」
小平次は枇杷丸を引きながら小走りに駆け出した。
紘子たち一行は、ゆっくりとした旅程ながらも着実に峰澤に近付いていた。
「そろそろこの辺りで江戸に繋がる街道から外れて峰澤方面に向かう。もうじき帰れるぞ」
馬上ではいつものように重実が紘子を前に乗せ、正面を向いたまま会話する。
「はい……帰ったら、心配をお掛けした方々にお詫びして回らなくては。あづまの女将さんにご家老様に、従重様に……」
「ははっ、お前らしいな。そうだなぁ……あづまの海老天蕎麦、今度は二人で食いに行くか」
談笑する紘子と重実の傍らで枇杷丸を引く小平次は、意外にもイネと意気投合していた。
「何と!? それでは、紘子殿はあのように見えて幼き頃は随分と……」
「ええ、幼き頃の姫様はそれはもう怖い物知らずで、私がきのこを採りに藪に入れば同じく藪に入り、水辺の山菜を採りに沢に下りれば同じく沢に下り、私がお止めしても平気でどこまでもついていらっしゃるのですよ。足を滑らせて沢に落ちた時は、いやはや私の心の臓が止まるかと……まぁ、幸いにもくるぶしが濡れる程度の浅い沢でございましたけれど」
「ああして殿としとやかにお話しされているお姿からは想像も出来ません……」
イネは目尻の皺を深めて返す。
「ふふふ、姫様はとかくお心が素直なのでございます。亡き旦那様や奥様は、姫様が生まれながら澄んだお心をお持ちであるのに気付いて、それはそれは大切にお育てになっておいででした。お作法も手習いも、厳しく躾けられる時もございましたが、お二人はそれが生きる上で必要なことだと、必ず姫様の財になると、姫様が納得されるまで何度も丁寧に諭されて……。素直な子であるが故、嘘偽りや誤魔化しで接してはならぬと私もよく旦那様と奥様に言われたものでございます」
その頃、三木助は一行の少し先を進み道中の安全を確認していた。
(出立の折にはどうなることかと懸想したが、紘子殿は愚痴のひとつも零さず嫌な顔ひとつせず我々と歩まれている……大層真面目で芯の強いお方だ。加えて、失態を犯した私をあのように……)
「然程思い悩むようなことではありませんから!」
「これは御公儀からのお役目を受けての旅ではありません、故に重実様のためにお部屋を用意出来ずとも、重実様はお気になさらないでしょう。それに、私もイネも、殿方と相部屋で宿に泊まったことが何度かあります。一晩くらい、どうということはありません」
「新たな宿を探したり、無理を言って部屋を都合したりなどすれば、余計な銭が掛かります。そのようなことに銭を使うくらいなら、ご家老様に何か良い土産を買って差し上げましょう?」
紘子に腕を取られながら励まされた時のことを思い出し、三木助の口元がだらしなく緩む。
「そのうえ気立てもまこと穏やか、裁縫も達者で器量も良し……はぁ、殿がお羨ましい……」
(聞けば齢は私の一つ下……殿よりむしろ私と近いではないか。殿より先に私が紘子殿と巡り逢っていたら、如何していただろうか……っと、いかんっ、私は何と下賤なことを!)
まがりなりにも主君の思い人に横恋慕とは家臣としてあるまじきことである。
我に返った三木助は悶々とする心を振り払うようにぶんぶんと首を横に振った。
(全く、己が恥ずかしい。私はやがて父上の後を継ぎ峰澤の家老となり殿をお支えしなければならぬ身、この程度のことで心を乱していては何とする)
己を強く戒めながら歩を進めた三木助だったが、少しばかり歩いたところで立ち止まらざるを得なくなる。
「こ、これは、何と……」
三木助の眼が、倒れる男の姿を捉えた。
地面には男のものと思われる血が滲んでおり、男は虚ろな目で浅い呼吸を繰り返している。
「如何した!」
三木助は男に駆け寄り男に声を張り上げたが、男とは視線が全くかち合わない。
(こ、これは大事である、殿にお知らせしなくては!)
「良いか、今助けを呼んでくる。それまで気張られよ!」
三木助は慌てて立ち上がり重実たちの元に全力で駆け戻った。
「殿! 殿ー!!」
前方から血相を変えて走ってきた三木助に、重実は
「今度は何だ? また宿でも取り損なったか?」
と冗談を口にしながら枇杷丸を止める。
「一大事にございます! この先、人倒れがございます!」
「……なに?」
重実の顔から一瞬にして笑みが消えた。
「小平次、イネとひろを頼む。三木助、案内しろ」
重実は枇杷丸から降りて三木助と共に走る。
「小平次殿、イネ、私たちも少々急ぎましょう」
「はっ。では紘子殿、しかと枇杷丸にお捕まり下さい。イネ殿は……」
「何の! このイネ、こう見えてまだまだ健脚にございます」
「では、少しばかり足を速めます」
小平次は枇杷丸を引きながら小走りに駆け出した。