第100話 袋小路・参

文字数 2,877文字

「朋あり、遠方より来たる。亦楽しからずや……」
 峰澤城の一室。部屋の中には七、八名の子が座り、皆一心に書物を開き声を揃えて論語を読んでいる。
 子供の多くは簡素な袴を履いた武家の子だが、一人二人は長屋で紘子に読み書きを教わっていた町人の子だ。更に、その中には紘子と峰澤までの旅路を共にした小平次の姿もあった。
 皆、書道具や書物を紘子が縫った平包みに包んで膝の脇に置いている。
「友が遠方から訪ねてくることは何と楽しいことではないか、という意に続くのは、他の者が己を分かってくれずとも不満に思うことはない、という意。そして、それについて何と君子ではないか……と。ここで言う『君子』とは、心根の立派な人や高い品格を持つ人とでもすれば分かりやすいかしら。総じて、立派な人とは如何な人かが、ここには記されているの」
「――紘子殿」
 読み終えた子供たちに紘子がその意味を語り終えたところで、廊下から三木助が声を掛ける。
「手伝いに参りました。ちょうど従重様も長屋の片付けを終えられてお戻りですので、暫し小休止されてきては如何ですか?」

 紘子が寺子屋稼業を城内で始めるに合わせ、従重はかつて彼女が住み子供たちに学問を教えていた長屋を引き払うことを決めた。
 もうじき年も明けようというこの時期に長屋を明け渡すことは、大家にとっても店子にとってもちょうど良い区切りとなろう。
 紘子が長屋に置いたままにしていた物は行李一つと最低限の煮炊きの道具程度だったが、左腕と両足に難を抱える彼女にはそれらさえ運び出すにも荷が重く、代わりに従重が片付けを申し出て今に至る。

「では、お言葉に甘えて少しの間ここをお願いいたします。三木助殿なら安心してお任せできます」
「いやいや、実は私は算術が覚束なく……。いずれ砲術を学ぶ時のためにも、算術には強くなっておきたいのですが……」
 紘子に褒められた三木助は照れ笑いを浮かべながらそう返した。
「確かに、火薬を調合するにも算術は要りますからね。ですが、三木助殿ならすぐに算術も会得できると思いますよ」
「紘子殿にそう言われますと俄然やる気になります。今度、是非指南頂きたい」
「私が知る程度のことでよろしければ、近々。では、失礼します」
 紘子は三木助と笑顔で挨拶を交わし部屋を出る。

(従重様にはまこと良くして頂いている。何とお礼をすれば良いのか……)
 そう考えて、紘子は苦笑した。
(従重様のことだ、きっと「敦盛最期を聞かせよ」と仰るだろう。その時は、ご満足頂けるよう心を込めてお聞かせしよう)
 従重の喜ぶ顔を思い浮かべ、苦笑が穏やかな笑みに変わった直後。
(ああ、まただ……)
 紘子は眉間に深い皺を刻み、よろよろと近くの柱に手を付く。
(この二、三日、どうにも胸が悪い。今朝もやっとの思いで朝餉を口にした。重実様のご様子が気がかりで仕方がないせいだろうか……)
 重実とはここ数日朝餉と就寝の時くらいしか顔を合わせていない。
 重実が城を空けることが多くなったことも気にはなっているが、紘子がそれとなく尋ねてみても彼は「大事ない」としか答えてくれない。
(もっと踏み込んでお尋ねしても良い頃合いだろうか? お疲れのところにあれやこれやと問うのは気が引けるけれど、どこか思い詰めた様子の重実様をこれ以上放ってはおけない)
 紘子は暫くそのままの体勢で悪心が静まるのを待ってから、再び歩き出した。

 その頃、長屋から引き揚げてきた紘子の荷物を雪に預けた従重は、兄重実の私室へと足を向けていた。
 今年の後始末に次の年を迎える支度と、城内は心なしか忙しない雰囲気に包まれている。
(今年は紘子を迎えて、俄造りではあるが藩校もできた。新しい年はさぞ賑やかになるのであろうな。俺がこうも新年を楽しみにするなど、これまであったであろうか)
 来年は、きっと明るく賑わいに満ちた年になる……親しき者たちの笑顔を思い浮かべるなど、これまでの従重には考えられぬことであった。
(しかし……)
 ふと、従重の眉間に皺が寄る。
(紘子を城に迎えてからひと月も過ぎたというのに、兄上の口からは未だ祝言の『し』の字も出ぬ。それ程公儀の許しを得るのは難きことなのか? そういえば、確か田辺殿と言うたか……兄上と昵懇の間柄であるというあの幕臣がいつぞや訪ねてきてからというもの、兄上は随分と城を留守にすることが増えたな。全く、祝言の目処も立てぬばかりか頻繁に城を留守にしおって、これでは紘子が不憫ではないか)
「今日は出かけておらぬ筈、これは一言物申してやらねばならぬな」
 憮然とした面持ちでそう呟いて間もなく、従重は重実の私室の前に立った。そして、「兄上」と声を掛けようとした時。
『替え玉は下策です』
 障子越しに聞こえてきた重実の声に、従重は思わず声を引っ込める。
『しかし、他に策が思いつかぬ』
『尾張側はそれで騙せても、ひろの顔や正体を知る者には通用しませんよ。江戸に流れた旧朝永藩士なんぞに何かの拍子でひろの姿を見られたら万事休すでしょう。婚儀の許しが出れば、ひろは参勤交代のせいで次の春には江戸暮らしになる。そうなればひろのことを知る者にどこで会うか分かりません。そもそも、替え玉がうっかり口を滑らせたらそこで終いですよ』
『確かに……。無嗣断絶を避けるために嫡男の替え玉を用意し公儀に届け出て難を逃れた藩が幾つもあるらしいと噂を江戸城内で耳にしてな、紘子殿にも使えないかと思ったのだが……』
(この声と兄上の話し方からして、相手は田辺殿か。しかし、「替え玉」? 「尾張を騙す」? 紘子について話しているようだが、一体何を……)
 普段の従重であれば、相手の話の腰を折ることも構わず目の前の障子戸を開け無遠慮に割り込み問いただすところであろう。
 しかし、紘子のことで何やら二人が切羽詰まった声音で話していると察すると、そうしたいつもの行動に出ることが出来なくなってしまった。
 従重は障子戸に正対していた身を無意識のうちに翻し、背と耳を向けて息を殺す。
『それなら、やはり八束の血筋を継ぐ者を探し出す方が賢明です』
『だが重実、どれだけ江戸城の書庫をひっくり返してもそれらしき家系には辿り着けなかったではないか。八束秀郷、孝子の父母方、双方のそのまた父母方まで遡っても八束家を再興するに足る男子はいなかったであろう』
『まだ公家側を遡ってません。八束家は元々公家の遠縁、そちらを辿れば……』
『お前、己が何を言っているのか分かっておるのか?』
 親房の一言の後、沈黙が流れた。
『公儀は八束家を握るために紘子殿を尾張の遠縁と結婚させようとしているのだぞ。こちらから公家に八束家を売り渡すような真似をすればお前は……いや、お前だけでなく清平の家も峰澤も無事では済まんぞ。紘子殿がお前の家を死ぬ気で守ろうとしたこと、忘れたわけではあるまい?』
『忘れるわけがないでしょう!』
 兄の上げた剣呑な声に従重は思わず息を呑む。
 そして、兄が
『しかし、他に手がありますか……』
 と、今にも消え入りそうな声音で吐き出すのを聞いて、二、三歩後退った。
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