第84話 北脇兄弟と重実・弐

文字数 4,892文字

「そんな……」
 三木助の一言は、紘子にはにわかには信じ難いものだった。
「よもや重実様に限ってそのような――」
「無論、殿は家臣を邪険になさるお方ではございません」
 紘子がここまで動揺するとは想定外だったのか、三木助は咄嗟に足りない言葉を補う。
「ただ、あの場では私は殿を危険に晒す厄介な存在であったということです。私は……武芸に於いては兎角使えぬ故」
 そこまで言って三木助は俯いた。
「……情けないことに、藩の道場に出入りする童たちにさえ私は一本取れた試しがございません。家老の嫡男がこれでは殿にも父上にも申し訳が立たず、鍛練だけは怠らずに参りましたが……。今日のような時、主家に仕える武士ならば主君の刃となり盾となるのが本分というもの。私も、せめて殿の盾くらいにはなりとうございました。されど、殿はそのようなことを何より嫌うお方です。あの場に私がおれば、殿は私などを庇い、命まで落とされていたやもしれません。故に殿が私をあの場から遠ざけられたことは正しかったと悟っております。悟っておりますが……」
「心が、納得されないのですね」
 紘子が静かに発したその一言に、三木助ははっと顔を上げる。
 紘子は穏やかに微笑みながら
「重実様の本音を伺ってはどうでしょう? 重実様も、三木助殿も、互いの考えを慮ってばかりで心の内を明かしてはいないように見受けられます。三木助殿はやがて家督を継ぎ家老として重実様をお支えするのでしょう? であれば尚のこと、互いを良く知ることが肝要では?」
 と提案すると、三木助を促した。
「共に、重実様の元に参りましょうか」
「いやっ、斯様な恐れ多きことは……! それに、私を前にして殿がご真意を仰るかどうか……」
「ええ、三木助殿のご案じももっとも。ですから、重実様には私がそれとなくお尋ねしてみますから、三木助殿は襖の陰で秘かになさっていて下さりませ」

 一方、小平次はイネに不貞腐れた顔を見せてはいたが、元々彼女に対して文句があるわけでないからかぽつりぽつりと心の内を話していた。
「稽古に励んできたのは、殿に一人前と認めてほしかったからです。また、前のように打ち合いをしたいのです。だのに……」
「ええ、ええ。小平次殿の刀捌き、実にお見事でございました。このイネ、どれ程心強かったことか」
 イネはひとしきり小平次を褒めると、何か考え込む素振りを見せながら再び口を開く。
「お殿様は、小平次殿の腕前は認めていらっしゃるご様子ですが……こうなりましたら、お殿様を本気にさせるしか手はございませんなぁ」
「しかし、私には如何したらよいものか……」
「小平次殿、イネに少々案がございます」
 顔を顰める小平次に、イネはニヤリと笑って耳打ちした。

 紘子は宿の勝手場に顔を出すと、下女に湯の入った土瓶と漬け物少々を頼み、それらを受け取って重実の部屋に上がる。
 三木助には廊下に潜むよう目配せし、
「重実様、紘子でございます」
 と襖越しに声を掛けた。
「ああ」
 どことなく気のない返事に紘子は三木助と苦笑を交わした後襖を開ける。
 重実は障子を開けぼんやりと外を眺めていた。
「お女中さんに白湯と漬け物を頂きました。如何ですか」
「えっ?」
 重実は突如目を見開いて振り返り立ち上がると、土瓶と漬け物の載った盆を紘子の手から慌ててかっ攫う。
「……危ないことをしてくれるな。体勢を崩したら大火傷だぞ」
「ご心配頂くのは嬉しいですが、これくらいは出来ます」
 穏やかな調子で言い返され、重実は気まずそうに視線を逸らした。
「そうだよな……すまん。なぁ、ひろ……」
「はい」
「……暫し、話相手になってくれるか」
 重実は畳の上に腰を下ろすと、紘子に座布団を勧め、湯呑み二つに土瓶から白湯を注ぐ。
「重実様、それは私が――」
 紘子は慌てて給仕を代わろうとしたが、重実はふっと笑ってそれを制した。
「どっちが注いだって白湯は白湯だろう? 俺だって、これくらいは出来る」
「それはそうですが……それに、座布団は……」
「足に負担が掛かるだろう、黙って座っとけ」
(……言い出したら聞かないところがおあり故、ここは甘えるほかないか)
 重実には少々強引なところがあることを紘子は出会った頃から知っている。
「では、有り難く」
 諦めた調子で微笑んで紘子は重実の向かいに座した。
「……さっきは、みっともないところを見せたな」
 湯呑みの中の白湯を揺らしながら、重実が俯きがちに切り出した。
「よろしければお聞かせ願えますか? 何故あの時重実様が小平次殿に不殺をお命じになったのか」
「小平次には、ああいう形で人の死を背負ってほしくなかったんだ」
 一言そう答えた重実は、数秒の沈黙を挟んで再び口を開く。
「あいつは北脇家じゃ末っ子で四男坊、未だ養子の受け入れ先も見つからん。このままどこの家の跡継ぎにもなれんようなら、せめて元服した後婿養子の話でも来るまでは俺が小姓として抱えようとも考えてる。だが、それは真っ当な武士であってこそだ。小平次は、いくら腕が立っても心まで早熟ではない。あれでまだまだ小童だ。人の命の重みを知らぬうちに人を殺めれば、耐えきれず力に溺れるか心をやられるか……あいつの行く末を思えばこそ、それは避けたかった。だが……」
 自嘲気味な笑みがうっすらと重実の(おもて)に浮かんで消えた。
「……あいつは思いの外成長していたのかもしれん」
「恐れながら……小平次殿は年相応のお心と思われます」
「何故そう思う?」
 思わず重実の口を突いて出た問いに、紘子は問いを返すように答える。
「重実様もご自身にお心当たりがありませんか? 相手が己に近しければ近しいほど、その手助けや先回りに無性に苛立ったことはありませんでしたか? 他にも、善悪の境がはっきりとしすぎてその合間というものを受け入れられぬ時期など」
「それは……」
 心当たりがありすぎて重実は言葉に詰まった。
 父が側室である母に重実らを産ませたにもかかわらず正室亡き後も側室扱いのままにしていたことに当時は強い反感を持っていた。
 藩士の不祥事や従重の放蕩癖、他にも得心しがたい物事の数々を穏便に片付けようとする父と忠三郎に食ってかかったこともあれば、何かと世話を焼く忠三郎を疎ましく思った頃もあった。
「ちょうど、今の小平次殿はそういう時期なのだと思います。人は、世の中には思うままにならぬこともある、清きことのみが正しきこととは限らない、そうした様々な理不尽を学んでやがて大人になるのではないでしょうか。一見道理にそぐわぬ(めい)に己の正しさをぶつけるだけでその命の真意を探ろうとしないうちは、まだ子供なのです。ですが……」
 紘子は重実に微笑む。
「……イネは申しておりました。『子を育てるとは、我が子を谷底に突き落とす獅子の如き所業である』と。『可愛い子には旅をさせ』とも言いましょう、背負わねばならぬ時は背負わせて良よいのだと思います。年長者が忘れてならないのは、子が傷付かぬように先回りするのではなく、傷付いた子を如何にいたわり正しき道に導くか、ではないでしょうか」
「……成程な」
 重実は神妙な面持ちで紘子の言葉にじっと耳を傾けていた。
「あの時、小平次にはそうしてやれば良かったのかもな」
「『小平次には』……ということは、三木助殿にはそうは出来ぬと?」
 紘子がさりげなく話題を三木助のことに移すと、廊下で聞き耳を立てている三木助の背筋はぴんと伸びる。
 重実はそんな三木助の存在に気付いていない。
「あの場で三木助に判断を任せていたら、あいつは間違いなく死んでいた。いくら獅子が我が子を突き落とすが如くと言っても、命には代えられん。かといって、俺にもあいつを気に掛けながら賊とやり合う余裕はなかった。ならば一刻も早く助けを呼びに行ってもらった方が互いの利になると考えた」
「そうだったのですね……。ですが、三木助殿の心中は如何ばかりでしょう。三木助殿は大層真面目なお方です、主君を置き去りにして人を呼びに行くのは、さぞ口惜しかったのではないでしょうか」
 紘子の言葉は至極真っ当だったが、重実はそれに難しい顔をした。
「それは分からんでもない。だが、三木助の剣の腕は世辞にも褒められたものじゃない。あれはあれでそれこそ血の滲むような努力はしている、そういう奴だからな。だが、成果がまるで伴わない。剣が駄目でも弓や槍があるとも言うが、弓など剣より器用さを求められ、槍は胆力を求められる。馬は……何とか乗れるがな。ともかく、三木助は武芸という武芸全てに見放されている奴だ」
(重実様がここまではっきりと仰るということは、三木助殿の謙遜でもなかったということか……)
 そう思いながら黙って言葉の続きを待つ紘子に、重実はひと呼吸置いて再び話し出す。
「……だが、俺は三木助にそれを負い目に感じてほしくはない。あいつは、間違いなくこの先俺の――峰澤の宝となる」
「宝……ですか」
「ああ」
 重実の顔にようやく明るさが差し込み始めた。
「あいつは確かに剣の腕はからきしだが――」
 重実は指先でとんとんと自身のこめかみの上辺りを(つつ)いてみせる。
「ここの出来は飛び抜けている。この泰平の世でこれから求められるのは剣の腕より頭の出来だ。もう、人に刃を向けて流れた血で道を拓く時代じゃない。あらゆる知恵で暮らしを豊かにしていく時代なんだ。三木助は必ず泰平の申し子になる……いや、もうなっている。俺は、あいつにいずれは家老として俺を支えてほしいが、それだけでなく俺と峰澤をより良き方に導いてくれる存在になってほしいと思っている。そのためにも、様々な学問を身に着け多くの見聞に触れてほしい。だが、いくら俺がそう言っても、頭の硬いあいつは武芸の一つも出来ぬようでは云々と言ってやたら剣術に拘るのだろうが……」
「では……砲術を学ばせては如何でしょうか」
 紘子が遠慮がちに進言してみると、重実は目を丸くした。
「砲術?」
「……生前、父が私に話してくれたことがあります。この先、望まずとも鉄砲や大筒が強さの象徴となる時代が来よう……と。特に、鉄砲は扱い方さえ心得れば女子供でも戦えると聞きます。もちろん、砲術を『姑息で卑怯な戦法』と言う武士が多いことは存じております。ですが、武士にとって何より大事は主君をお守りすること。たとえ剣術でなくても、それが主君を守るための(すべ)となれば、三木助殿にとっては武士の誇りを支える心強いものとなるのではないでしょうか」
「そうか……砲術か……」
 重実がぶつぶつと呟いた、その時。
「殿ーっ!」
 襖が勢いよく開いて三木助が飛び込む。
「なっ、三木助!?」
 驚愕する重実の前に三木助は滑り込むようにして平伏した。
「私はまだまだ未熟者でございました! 殿がこれほどまでに私に期待をお寄せ下さっていることなど夢にも思わず、私は、私は……!」
 三木助が飛び込んでくるなど紘子にとっても想定外で、彼女はただ呆然と三木助を見つめている。
「殿、砲術が武士として殿をお守りすることに繋がるのであれば、私は江戸で砲術を学びとうございます! そして、必ずや殿のお役に立てる武士となります!」
「三木助、お前……いやその前に、ひろ……」
 重実は暫く目を白黒させていたが、事の次第を飲み込むと紘子をじとりと睨んだ。
「……謀ったな?」
(ああ、やはりやり過ぎだっただろうか……)
 紘子は眉を八の字にして頭を下げる。
「……申し訳ございません」
「……いや、責めてはいない。お前が手を回してくれなかったら、俺の考えは三木助に伝わらなかっただろうからな」
 そう言いながら重実は紘子から視線を逸らし頬を掻いた。
(ああ……言い訳のひとつもせず謝る仕草まで可愛らしいと思う俺はとんだ阿呆かもしれん。それにしても、今回はひろに助けられてばかりだな……)
「と、ともかく、砲術修行について話を進めるのは良い師範が見つかってからだ。田邉殿に心当たりがないか聞いておく。それと……」
 重実は三木助の肩をひとつ叩く。
「……やがてはお前あっての俺となり、お前あっての峰澤となる。それだけは今から心得ておけ」
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