第102話 同じ景色を見たい

文字数 6,107文字

 冬の日の入りは早い。気付けば暮れ六つ、あっという間に日没の頃を迎え、親房は峰澤の城を後にする。
「いいか重実、早まるな。伊豆守様に言い渡された期限は迫っているが、もう十日、いや、もう半月は何とかして私が引き延ばす。その間に何か他に手がないか考えよう」
「……ええ」
 かけた言葉に重実がそう返事するまでの間に生じた妙な間が、親房の心に重くのしかかった。
 表面上はいつもと変わらぬ風でも重実の憔悴ぶりは明らかで、それを目の当たりにするのはどうにも忍びない。
「この一件が頭から離れぬことであるのは致し方ないが、紘子殿と過ごす時を大切にした方がいい。忙しさにかまけてほったらかしにされたと、年老いてからも延々と恨まれるぞ」
(「年老いてからも」……か。田辺殿に気を遣わせてしまったな)
 お前たちは末永く共にある、これが今生の別れになどなろうものか……親房が暗に込めた願いと励ましを察し、重実は寂しげながらも苦笑してみせる。
「それは御免被りたいですね」

 紘子と過ごす時を大切にとは言われたものの、夕餉を済ませた重実はひとり私室に戻り文机に頬杖をついていた。
(何も婿養子に固執することはあるまい。ひろを養母とする手があるじゃないか。養子を取り、八束の家督を継がせてしまえばいい。さすればひろが八束の家に縛られることも……)
「……いや、違う」
 重実は力なく首を横に振る。
(御家再興だの婿養子だのあれやこれやと言いながらも、公儀は「八束秀郷の娘」を握っておきたいんだ。仮にひろがただの養子を取り、家督を譲った後だとしても、徳川とさしたる縁もなく石高の低い俺との婚姻を認めることはない。徳川は信の置ける身内でなく俺のような田舎小藩の主が八束の家に関わることを許さないだろう。八束の血を握った俺が徳川に反意を持つ公家衆を抱き込めば第二第三の謀反が起きかねん、そうした恐れが僅かでもあるならば公儀は絶対にそんな危うい橋を渡る真似はしない)
「だが……一度田辺殿に話してみる価値はあるか」
 重実がぽつりとそう独りごちた時だった。
「重実様、よろしいですか」
 廊下から聞こえてきた紘子の声に、重実ははっとする。
「あ、ああ」
 今考えていたことを慌てて頭の隅に追いやりながら返事をすると、障子が静かに開き、紘子が入ってきた。
「如何した? まだ寝る刻限ではないが……疲れて眠くなったか?」
 重実は寝支度を整えてやってきた紘子の手を取り、火鉢の傍に座らせる。
「手が冷たい。これでは良く眠れんだろう。暖を取ってから休もうな」
 そう言って己が肩に掛けていた羽織を紘子に被せて隣に座ると、紘子は改まった様子で座り直し彼に正対した。
「ひろ……?」
 いつもの彼女とは何かが違うと感じた重実が名を呼ぶと、紘子は
「重実様としかとお話をしたくて、少し早く参りました」
 と切り出す。
「話?」
「はい。これ以上見過ごすことは、私にはできません。重実様、重実様がお抱えになっていることは、私にはお話しできないことですか? このところ、大層思い詰めていらっしゃるご様子なのが気がかりで……」
 重実を案じる想いに揺れる瞳に見つめられ、彼は言葉に詰まった。
「あ、いや……そう案ずるものじゃないさ。少々上手く事が運ばないものがあって手こずっているだけだ」
 詰まりながら返ってきた答えに、紘子は一瞬切なげに眉根を寄せる。
(やはり、お話ししては下さらないのか……。重実様は私に嘘はおつきにならない。けれど、恐らく隠し事はなさる、そういうお方だ。大事であればあるほど、ご自身お一人で抱えようとなさる。今も、きっとそうなのだ。ただ……これで分かった)
「……ご公儀は、私を如何しろと仰せなのですか?」
「――っ!?」
 いきなり核心を突かれ、重実はいよいよ返す言葉を失った。
(頑なに話されないのは、それだけ私に知られたくないことである故だろう。幕臣の田辺様がいらしてからこのようになってしまったこと、それから連日田辺様と秘かにお話をされていること……これまでの不可解なことを全て繋ぎ合わせれば自ずと見えてくる。恐らく、私と重実様の婚姻をご公儀がお許しにならないのだ。そして、重実様は何としてもお許しを頂くために田辺様とご相談をされているに違いない。けれど、未だ憂いの晴れぬご様子から察するに、ご公儀からはまだお許しが頂けていない。恐らく、重実様や田辺様では如何ともし難い何かがあるのだ)
(こいつ……どこまで知っている? いや、この問いかけだとこいつはまだ八束家再興や婿養子云々までは知らない)
 うっかり口を滑らせてしまいそうになる己を落ち着かせ、重実は慎重に言葉を紡ぐ。
「心配させてすまん。お前もそれとなく察しているようだが、公儀がなかなか俺たちの婚姻を認めないのは真だ。公儀も由井正雪の一件があった後で何かと気が立っているのだろう。故に、俺たちのことにも慎重になっているのだと思う。今は、軽々しいことを言ってお前を不安にさせたくはない。あと半月もすれば何かしらの動きがあると俺は踏んでいる。お前にはその時にしかと話すと約束する故、もう暫し待っていてほしい。だが――」
 重実は紘子の手を取り、両手で包み込むように握った。
「――神仏を敵に回してもお前を守ると誓ったことに、お前を手放さんと言った気持ちに、嘘はない」
 紘子は包まれた手を見下ろす。
(重実様の手は、これまで何度も私を引っ張って下さった。少し強引だと思うこともあったが、いつも力強く頼もしいものだった。だのに……何故今宵の手はこれほどまでに心許なく感じられてしまうのだろう? 何故、このお方は心の内に巣くう恐れや不安を私に隠そうとなさるのだろう? 私は、私は――)
「――貴方様の傍で貴方様と同じものを見て生きていくと、貴方様と共にあるためなら如何なものを見ようと目を逸らさぬと決めたのに。私は重実様と同じ景色を見たい……それがたとえ凄惨な地獄であったとしても、目を見張るほどの極楽であったとしても。ただそれだけだのに」
「ひろ……」
 思わず零れ出た紘子の本音に、重実は呆然と彼女の名を口にしたきり絶句する。紘子はそんな重実の手を一度そっと払うと、今度は逆に彼の手をきゅっと両手で包んだ。
「私はいくらでもお待ちします。半月であろうと、十年であろうと。貴方様の気持ちを疑うこともなく。ですが、そのお心をご自身で独りぼっちにされることだけはなさらないで下さいませ。貴方様を案じ、心から愛し求める者は……今や私一人ではありません故」
 手を見下ろしたまま告げられる紘子の言葉は、重実の喉奥を締めつける。気の利いた返しも、慰めの台詞も、ろくに出てきやしない。重実は無言のまま紘子の手が与えてくれる控えめな温もりだけを感じ続けた。

 どれほどそうしていただろうか。重実は僅かに俯いたままの彼女の頬にかかる髪に指先を伸ばす。
「……いっそ、二人で逃げようか」
「重実様っ?」
 普段の重実なら決して言わぬであろう一言が彼の口から囁かれ、紘子ははっと顔を上げた。
 紘子と真正面から目が合い、重実は一瞬「しまった」とでも言うように唇を震わせたが、それよりも冗談とも本気ともつかぬ色を宿した彼の瞳に、紘子は釘付けになる。
(まるで、あの晩の重実様のようだ……)
 いつぞやの晩に見せた、縋りつく幼子のような視線と今の彼の視線が紘子の中でぴたりと重なった。
(言うに言えぬ本音を、心の内を、私に見せようとなさっている……きっと、これが今の重実様の精一杯なのだ……)
「言ったではありませんか。如何な景色であろうと、私は貴方様と同じものを見たいと」
 重実は小さく息を呑む。
(こいつは、こんな弱音を吐くようなどうしようもない俺までもまるごと受け止めてくれるのか……)
 思えば、これまで「あるべき姿」を強いられる人生だった。「こうあれ」と言われることに然程の抵抗も感じず、いつの間にか「こうあるべき」と己をがんじがらめにして生きてきた。己の至らなさを自覚してもそれを乗り越え突破することで、己を強いと錯覚していた。故に、他人の弱さには寛容になれても己のそれを認めることなどできなかった。己の弱さに直面し戸惑うことなど、恐らく目の前の紘子と出会うまでは殆ど感じたことはない。
(みっともなく無様な己を晒しても、ひろは何も変わらず俺の手を取ってくれるんだな……)
 どこか力の抜けた笑みが重実の顔に浮かぶ。
「そこは『考え直せ』と言うべきだろうが」
「あ……そう言われますと、確かに」
 そう言って苦笑する重実につられて、紘子も思わず微笑んだ。
(良かった……恐らく根本は何も解決していないのだろうけれど、少しでも重実様のお心が楽になったのなら)
 しかし、呑気に微笑んだのも束の間、紘子は不意にこみ上げてきた嘔気に顔を俯ける。
「ひろ、如何した? この時分ならまだ淳庵殿が――」
 苦しげに顔を歪める紘子を見て、藩医の須藤淳庵を城に呼び戻すべく立ち上がろうとする重実の袖口を、紘子は慌てて引っ張った。
「須藤先生には夕餉の前にご相談申し上げましたっ。先生は、これは病にあらずと仰せでした」
「いや、しかし……」
 納得のいかない様子の重実に、紘子は息を整えた後告げる。
「先程、言いました……『貴方様を案じ、心から愛し求める者は私一人ではない』と」
「ああ、言っていたな。だが、それとこれと一体……」
「ですから、『私一人ではない』のです……私一人ではなくなったのです」
 そこまで変換されるとさすがに気付いたか、重実は
「……は?」
 と間抜けな声を漏らした後、視線を右往左往させ始めた。
(待て、待て待て待て。つまり、つまりだ……)
「俺は……父親になるのか?」
 恐る恐る問うと、目の前の愛しい人はただ黙って頷く。
「そ、そうか……そうなのか」
 めでたいと言って紘子を抱きしめてやりたいのに、重実は思考が追いつかない。いや、正確には突如湧いて出た罪悪感に苛まれていたと言った方が正しい。
(俺が目の前のことで手一杯になっていた時に、ひろはそんな重大事を独りで抱えていたんだろうか。だとしたら、俺は何て酷なことを……)
「俺は、お前一人に心細い思いをさせていたんじゃないのか? 俺がこのざまだった故に言うに言えず」
「いいえ、そのようなことは」
 紘子はふるふると首を横に振った。
「私も今日知ったばかりで……私よりも、従重様が先にお気づきになったくらいです」
「従重が? あいつは何故そうしたことにばかり鼻が利くのか……ともかく、従重のことは一旦置いて、だ」
 重実は両腕を広げて微笑む。
「ひろ、おいで」
「……はい」
 膝立ちでそろそろと距離を詰め、紘子は重実の胸に体を預けた。火鉢や羽織の温もりとは違う重実の心地良い体温に、ほっと小さく息を吐く。重実はそんな紘子の体をやんわりと抱きしめ、
「つくづく俺は果報者だ」
 と彼女の耳元で囁いた。
「子などおらずともお前と仲睦まじく添い遂げられれば満足だった筈だのに、いざ子を宿したと聞くと、どうにもたまらん。お前も、生まれてくる子も、一等大事にすると誓う」
(ひろのこの先を思えば、今は呑気に笑っている場合ではない。だが、今宵だけ……今宵だけは、何もかも放り出してこの喜びに浸っても罰は当たらないだろうか)
 紘子の肩口に埋められた重実の顔には、この上なく幸せそうな笑みが浮かんでいた。

 一方、親房は江戸市中にある自身の屋敷まで夜道を帰るを良しとせず、峰澤城下の旅籠に宿を取ろうとしていた。
 冷えた指先に息を掛けつつ玄関に入ろうとした時、
「田辺親房殿とお見受けする」
 と暗がりから現れた人影に呼び止められる。
「如何にも。何用か」
 人影を警戒し、さりげなく刀の柄に手を掛け問うと、人影は顔の見える距離まで近づき軽く会釈した。
「夜分に失礼。峰澤清平重実が弟、従重にござる」
「従重殿?」
 警戒は解いたものの、何故重実の弟が自分を訪ねてきたのか皆目見当が付かない親房は首を傾げる。
「斯様な所で立ち話もなんです故、まずは上がらせて頂きたい」
「……承知した」
 従重の顔を見て、ただの世間話をしに来たような眼光ではないと感じた親房は、ひとまず宿を取り従重を部屋へと招いた。
「して、従重殿、私に如何な用があってわざわざここまで?」
「『従重』で結構。兄上のことは呼び捨てになさっているではないですか」
「重実とは江戸の道場で兄弟弟子だった故にそう呼んでいるのだが……まあ、弟弟子の弟と思って、名で呼ばせて頂こう。では改めて従重、私に一体何の話を?」
 苦笑交じりにそう答え、物腰柔らかく応じる親房とは対照的に、従重の双眸はやや剣呑に細められる。
「夜も更けてきます故、単刀直入に。紘子を兄上の妻に据えるすべ、田辺殿も兄上も未だ見つからぬのでしょう?」
「従重、何故それを――」
「公儀は紘子に婿を取らせ、八束家を再興させようとしておる。今の兄上にはそれに抗う大義名分もなく、田辺殿はいたずらに時を稼ぐより他ない」
 瞠目する親房の言葉の続きを待たず、従重は続けた。
「しかし、俺にはありますよ。この状況を全て打破する策が」
 従重が一体何時何処で八束再興にかかわる大事を知ったのかは気になるものの、有無をも言わせぬ雰囲気を醸しながらそう告げる従重を前にしては親房にとってそんなものは二の次だ。
「はったり……ではなさそうだな。だが、何故重実ではなく私に話そうとするのだ?」
 親房にそう問われた従重の口角が、ほんの僅かに上がる。
「兄上に邪魔をされては上手くいかぬ故です。この策は、行われる寸前まで兄上に知られてはならぬ。無論、紘子にも。そして、あの二人に知られぬまま事を運ぶには、田辺殿、貴方の力が欠かせぬ」
(従重のこの目……一度策を聞けば半ばで手を引くことを許さぬつもりではなかろうか。いや、もっと苛烈な……聞いた以上は従わねばならぬような、とんでもない策なのではなかろうか? だとすれば、安易にここで聞いて良いものか……)
 親房は躊躇った。今、自分は一度踏み込んだら引き返せない道の前に立っていて、退路もなく、前に進むにも相応の覚悟が求められる……そんな状況に瞬時にして追い込まれたというのに、その覚悟が定まらずなかなか従重に続きを促すことができない。
 しかし、従重は悠長に待つほど寛容ではない。
「恐らくあの二人を夫婦にするにはこの策しかありますまい。そして、この策は俺にしか成せぬ」
 従重にそう言われ、親房は唇を噛む。重実といくら頭を突き合わせてもろくな打開策が浮かばない今、本能が危険だと知らせていても従重の策に乗るより他ないと内心分かっているからだ。
(嫌な予感はする。だが、従重がここまで断言するということは、従重なりの確信があるということだ。如何にすべきか……)
「兄上を助けたいとは思わぬのですか」
 なかなか踏ん切りがつかないところに真正面から直球を投げつけられ、親房はとうとう
「分かった、聞こう」
 と答える。
「その策とは?」
 促された従重は、今にも親房を射貫かんとするほど真っ直ぐに彼を見て口にした。
「八束幹子を亡き者にするのですよ」
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