第72話 贖罪

文字数 3,430文字

 早いもので、城代家老の離れの庭では椛が少しずつ色付き始めていた。
「姫様、空が高うなりましたな」
 縁側でイネが雲一つない青空を見上げると、隣で腰掛ける紘子も嬉しそうに目を細める。
「季節の移ろいは、真に早く感じるものだ」
 そう言いながら、紘子は重実に贈られた杖で中庭に立った。
「もうこのイネの手を借りずとも姫様はご自分のお足で何処へでも行けますなぁ……」
 佐原屋が重実からの「贈り物」を届けに来てからひと月あまり、紘子は毎日歩行練習をしている。
 立つ事さえままならなかった頃から、今はゆっくりながらも人の手を借りず杖を突いて歩けるようにまで
なった。

「重実様がじきにお迎えにいらっしゃるのだ。歩けぬようでは、共に帰れまい」
 傷は完全に癒えたわけではない。
 足の指の感覚はなく動いてもくれない上に、地を踏みしめる度に両足の甲には痛みが走る。
 それでも、「長い時を共に歩んでほしい」という重実の真心が紘子を突き動かす。
(私も、貴方様の隣に立ちたいのです。貴方様と共に歩んでいきたいのです……)
 もうじき重実に会える、その時に彼はどんな顔をして今の自分を見るのだろうか。
 驚いてくれるだろうか?
 喜んでくれるだろうか?

(私がここまで回復したのを見て、少しは心配性が落ち着いて下されば良いのだが……)
 そんな事を考えて小さな苦笑を浮かべると、
「おはようございます」
 と薬箱を携えた朔之進が縁側を歩いてきた。
「姫君、今日も励まれておいでですね」
「蔓崎先生」
 紘子は朔之進に一礼すると、中庭から縁側に戻る。
「御足を検めてもよろしいですか」
「はい」
 腰掛けた紘子の前に屈むと、朔之進は慣れた手つきで足に巻かれた晒を外し、軟膏を塗った。
「峰澤の殿がお迎えに上がるのは明後日でしたか」
「はい、昨日届いた文ではそのように。ですが、信州に入る手前の宿場から届いたもの故、足取り如何では多少の遅れもございましょう」
 朔之進は新しい晒を巻きながら仄かに笑う。
「ふふっ、殿もお人が悪い。私は殿が明日の朝にはいらっしゃるのではないかと思いますが」
「何故ですか?」
 目を丸くする紘子に、朔之進は頬を緩めたまま
「並の者の足ならば明後日でしょう。されどあの殿は姫君の事となると……しかも中々に悪戯心のあるお方故、姫君を驚かせるためなら労を惜しまぬでしょう。私は、殿が明日姫君に不意打ちを食らわせると思いますよ……っと、これは失敬。これでは、まことそうなった時姫君の驚きが半減してしまいますね」
 と返した。
「そんなに早くいらしては困ります……何としましょうか……」
 紘子は縁側から部屋の奥を覗く。
 裁縫箱の隣には、萌葱色の布地が畳まれて置かれていた。
 形からして、羽織のようにも見える。
「何かご事情がおありのようですね……何となくは察しがつきますが。今宵は寝ずの針仕事になりそうでしょうか?」
 朔之進が微笑まじりに問うと、紘子は
「ええ、今宵ばかりは」
 と笑みを返した。

 朔之進は「失敬」と断りを入れつつ紘子縁側に座る。
「たまの夜なべは致し方無いでしょう。なれど、この先はくれぐれもご無理はなさらぬよう。寒気は傷に障ります故。それから……」
 懐から一通の書状を出し、朔之進は紘子に差し出した。
「峰澤の殿にお渡し下さい。中には、姫君がこちらで負った傷と如何に治療したかを詳細に記してあります。殿を通じて藩医殿にお渡し願えれば、向こうでも同様の医術を施して下さるでしょう。聞くに峰澤の藩医殿は大層秀でたお方との事、この書状ひとつ目を通せば十分な手を打って下さる筈」
「何から何まで、誠にありがとうございます」
 紘子は頭を下ながら書状を受け取るが、
「しかしながら、蔓崎先生は何故ここまで私に手を尽くして下さるのですか? 松代のお城にも毎日のように上がられ大層お忙しいでしょうに。加えて私はこの通り松代に所縁ある者ではごさいませんし、士分も失った身。ここまでして頂くような者では……」
 と視線を俯ける。

 ふと、朔之進の顔から笑みが消えた。
「『医は仁術なり』と申します。私はその信念に従ったまで……と申せれば格好が付きましょうが、生憎私もそこまで出来た人間ではございません。私は、我が父の愚行を詫び、その罪を償いたかったのです」
「お父上様の……?」
 今度は朔之進の視線が下がる。
「父も医者でした。しかし、父はあろうことか救える患者を見捨て匙を投げた。医者の風上にも置けぬ愚行を犯したのです……貴女様に」
「蔓崎先生のお父上様が、私に?」
「……父は二年前まで旧朝永藩の藩医でした」
 朔之進は一度唇を噛んだ後、躊躇い混じりに告白を始めた。
「家老の吉住に呼ばれ、城で貴女様を診た父は、体の病にあらずと見抜いたそうです。紛うことなき心の病であり、城での暮らしが貴女様を苦しめている。それさえ改められれば時はかかれどお子を望めるようにもなると。しかし、それを申し上げたところ、吉住は……」
「……お父上様を脅したのではありませんか?」
「姫君、何故それを……」
 紘子は小さな痛みを堪えるように眉根を寄せる。
「今となっては吉住の心の内を知る術はありません。ですが、恐らく吉住は私に殿との子が出来る事を望んではいなかった。私には生ける屍でいてもらいたかったのでしょう。故に、お父上様が私を治そうとする事を是が非でも止めようとしたのでは、と」
「……父は、吉住にこう言われたそうです。『余計な真似はするな、お方様には子は望めぬと告げよ、さもなくば藩医としての身分を奪い、一家郎党藩を追放する』と。父は気の小さいところのある人です。家老である吉住にそこまで言われては逆らえなかったのでしょう。しかし、罪の意識は消えなかった。貴女様を見捨てた事を悔やみ、あの後私に家督を譲り隠居しました。朝永が廃したのはそのすぐ後で、私は幸いにも松代の藩医に目をかけられ、江戸にも医術を学びに出させてもらい、今があります。そこに此度このような形で貴女様との縁が繋がり、この機を逃せば父の罪を償う事は一生叶わぬ……そう思った次第にございます」

(ここにもいたのか……吉住に人生を狂わされた人が。だが、私がもっと強ければ、吉住も鬼頭様も止められたやもしれぬ……何故私はあの頃あんなにも弱く、無力だったのだろうか)
 全てを背負い立ち向かうには、あまりに幼かった。
 ただ、それだけの事。
 それでも、紘子は責任を感じずにはいられない。
「先生のお父上様に非はありません。吉住に立ち向かえなかった私の不甲斐なさが招いた事……先生にもさぞご苦労をお掛けしてしまった事でしょう」
「姫君、頭をお上げ下さい!」
 朔之進は思わず身を乗り出した。
「医者たる者、如何な理由があれど匙を投げるは許されざる事。それは病と闘う患者を愚弄するに他なりません。父は医者として決してしてはならぬ事をしたのです。許して頂きたいなどと申すつもりは毛頭ございません。私もいまだ父を許せずにおります故。されど……」
 寂しげな笑みを浮かべながら、朔之進は続ける。
「……遅ればせながらもこうして姫君のご快癒の一助となれた事で、その罪を少しでも贖う事が出来ていればと、願わずにはいられぬのです」
「蔓崎先生……」
 紘子は顔を上げた。
「先生のおかげで、私は重実様と共に歩む事が出来ます。私にはこれ以上の幸いはありません。ただ、先生の事はとても気掛かりです。このままお父上様とわだかまりを抱えたままで過ごされるのは、先生もお父上様も苦しい筈。亡くなってからでは和解も出来ません。どうか、もうお父上様をお許しになって下さい」
「姫君……かたじけのうございます」
 朔之進は僅かに声を震わせながら、紘子に平伏した。

「それでは、どうぞご自愛を。道中くれぐれもご無理なさらず」
「ありがとうございます。先生もどうか息災で」
 薬箱を抱えて帰る朔之進を玄関で見送ろうとする紘子に、彼は意を決して口を開く。
「姫君、これは先程の書状には書いておりませんが、恐らく姫君は――」

「……それは、真ですか?」
 戸惑うような表情を浮かべる紘子に、朔之進は言葉を選びながら
「必ず、とは申せません。ですが、江戸で学んでいた折に何人か姫君と同じような女子を診ました故、もしやと……。どうか御身を大切に、良く食し良く眠り、日々心穏やかに。江戸で診た女子たちの大半はそれでどうにかなりました。峰澤の殿とどうかお幸せに。では」
 と言い残し、笑顔を見せて去っていった。
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