第26話 兄と弟

文字数 3,163文字

 苦しそうな呼吸をしながらもどうにか眠りに就いた紘子の額をひと撫でし、従重は立ち上がる。
(さすがに城の外で夜を明かしたとなると、兄上にも咎められような。不本意だが、頭のひとつでも下げに行くか)

 一方、重実もまた昨夜は一睡もしていなかった。
 淳庵の所に行き目を離した僅かな隙に姿を消した紘子を捜し、夜通し城内を駆けずり回っていたのだ。
 大事(おおごと)にしたくないと城の使用人たちには内密に、忠三郎と二人で一晩中捜索したものの、とうとう紘子は見つからなかった。

(あんな大怪我で、一体どこに……)
 重実の足は遂に紘子の住む長屋にまで及ぶ。
(ここまで自力で帰ったとは到底思えないが……)
 「重之介」の姿で城下に出た重実は、躊躇いながらも長屋の障子戸越しに声を掛けようとした。
 ……その時。
 障子の向こうに映った何者かの人影に、重実は息を呑む。
(まさか、ひろか!?)
「ひ……」
 重実が紘子の名を呼ぼうとしたタイミングで、障子戸が開いた。
 目の前に現れた人物に、重実は今度こそ息を詰める。

 驚いたのは従重も同じだった。
 長屋を出ようと障子戸を開けた先にまさか兄が立っていようとは。
 しかも、その兄は藩主としての見慣れた姿ではなく、質素な着物に身を包み庶民か浪人風情に扮している。
(何故、兄上がここに……!?)
 従重は長屋の奥で眠っている紘子をちらりと見やると、外に出て後ろ手に障子戸を閉めた。
「如何されたのですか兄上、斯様なふざけた格好で」
 重実は声を押し殺して返す。
「お前こそ、何故ここにいる……?」
 二人は暫し無言で睨み合った。
 互いの腹を探るかのように。
(まさか……ひろの言っていた「旗本の次男」とは……従重の事だったのか……?)
(この様子、どうやら兄上は俺を捜していたのではなさそうだな……という事は、兄上が斯様な姿でここを訪れたのは、紘子が目的なのか?成程……読めたぞ)
 沈黙の後、先に言葉を発したのは従重の方だ。
「……紘子を追い詰めたのは、兄上でしたか」
 突然の一言に、重実は瞠目する。
「追い詰める……?俺が、ひろを……?」
 重実が紘子を愛称で呼んだ事に、従重の顔は微かに歪んだ。
「へぇ、兄上は紘子をそう呼ばれているのですか。これはまた、随分と入れ込んでおられるようだ。いつの間に長屋の町娘にちょっかいを出すように?」
「茶化すな。どういう事か説明しろ」
 重実の口から低く告げられた台詞には、秘かな怒りに似た情が見え隠れする。
「兄上がどういう経緯(いきさつ)で紘子と知り合ったのかは存じませんが、兄上は紘子の肝心な部分をご存知ないようですね」
「……肝心な部分、だと?そういうお前こそ、何故ひろと……?お前は、ひろをどこまで知っているというのだ」
 従重の眼光に剣呑さが増した。
「……兄上はいつもそうだ。上辺では相手を大事にしているかのように振る舞っておきながら、その心は大して相手を思ってなどいない。相手の痛みを、見ようとしない。相手の心に巣くう孤独に、寄り添おうとしない……っ!」
 従重の脳裏には、大名家の影に震え激しい雨の中を裸足で城から逃げ出してきたであろう紘子の痛ましい姿が思い起こされる。
 その指先には、目覚めた時には正気を失っている程に追い込まれ、泣きながら眠りに就いた紘子の涙を拭った感触が甦る。
「紘子は恐れているのですよ……大名という存在を、その大名が住む城を。城に入れと勧めた事もありましたが、『勘弁してくれ』と震えていましたよ。そんな事も知らず、紘子と馴れ合っていたのですか」
「ひろに……聞いたのか」
「詳しくは聞いておりませんが。ただ、あの時の……大名や城の話をした時の紘子の怯え方は、尋常ではなかった。兄上は、紘子のそういう部分に触れようとした事がありましたか?どうせ、上辺だけの楽しい逢瀬しかしていないのでしょう。でなければ知っていて当然だ。知っていれば、紘子を城に近付けようなど決してしない。知らずに紘子を城に連れ込んだのは、他でもない兄上、貴方様なのでしょう!」
「……っ」
 畳み掛ける従重の刺々しい言葉の数々に、重実は絶句した。
 愕然とした面持ちで見つめてくる兄に、弟は積年の恨みとばかりに奥歯を鳴らし、ふつふつと煮える怒りそのままにぐつぐつと吐き出す。
「……俺は今まで何一つ兄上には及ばなかった。生まれた時から、俺は兄上と違い何も持っていない。欲しいと求めていたものも、いつも兄上のものになった。それでもやむなしと思って生きてきた……所詮弟なのだからと。だが……」
 従重の声が微かに震え、その面は怯恨に歪む。
「……紘子だけは渡さない。ようやく、ようやく心から欲するものを見つけたのだ……!何でも手に入る兄上にはお分かりになるまい、それがどれ程愛おしく大切なものか。俺は何に代えても紘子を守ると決めた。あれがもう二度と泣かぬよう、二度と傷付かぬよう、二度と怯えぬよう、俺が守るのだ。たとえ勘当されようと構わぬ。あれを……紘子を失うくらいなら、家も身分も喜んで捨ててやろう。兄上には……兄上には絶対に紘子を渡さない!」
 従重は思いの丈をぶちまけた。
 そして、ただ立ち尽くすばかりの重実の横をすり抜け、長屋の扉を開けて去っていく。
(従重……俺は……)
 あまりの衝撃に何も考えがまとまらず、重実は目の前で閉ざされたままになっている長屋の障子戸をその双眸にただ映すばかりだ。
 
 どれ程そうしていただろうか。
 やがて重実は障子戸を開けようと手を伸ばしては止め、また少し伸ばしては止めるを繰り返す。
 しかし、彼はとうとう障子戸に手を掛ける事なく……いや、掛ける事が出来ず踵を返した。

 城への坂道を登るその足取りは、鉛のように重い。
(あいつが、あそこまで俺を憎んでいたとは……)
 ……従重の素行には、重実は予てより心を痛めていた。
 自分に対する態度も年を重ねる毎に刺々しくなり、(いやしく)も藩主の弟が夜な夜な城を出歩き遊び呆けている事を改めさせようにも良い言葉の一つも掛けられず悩む事も多かった。
 そして、兄弟間の不和がお家騒動に繋がらないかと幾度となく肝を冷やしてきたのも事実だ。
「何故、こうも上手くいかないのだ……」
 本音を言えば、従重の立ち居振る舞いや思考は心配を通り越して気に食わなかった。
 藩主の弟である以上、まだ未婚で子もいない兄に万一の事があれば藩も家も背負わなければならない。
 その自覚に欠けた有様を何とかしなければと言葉を掛けてきたが、これまでろくに響かなかった。
 とはいえ、いくら従重の素行に悩んでいるのが事実でも、彼そのものを疎ましく思った事など一度もない。
(この世でたったひとりの弟だぞ……たったひとりの肉親だぞ。だというのに、何故……)
 ……兄として心から大切に思っていたつもりだった。
 だが、弟にとっては「つもり」でしかなかったのだろう。
(「大して相手を思ってなどいない」か……)
 そんな筈はないと心の中で何度も叫ぶが、否定すればする程何故か虚しくなるばかりだ。
(ひろの事をもっと思っていたら、俺は下手を打たなかったのか……?)
 あの時紘子を城に運んでいなければ、彼女は今頃この世にはいない。
 間違った選択ではなかったであろうに、従重の言葉が重実の中の正解を揺るがしていく。
(あいつも、ひろを……)
 従重にぶつけられた紘子に対する思いと、重実に対する紘子を巡っての敵対心はあまりに強烈だった。
(俺は、一体どうすればいいんだ……)
 紘子への気持ちを自覚する一方で、重実は従重に対して強い敗北感を抱くのだった……。
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