第57話 先の見えぬ峠・壱

文字数 2,320文字

 信州松代に、蔓崎 朔之進(つるさき さくのしん)という若医者がいる。
 朔之進は代々続く医者の家系の跡取りで、二年程前に父親が隠居してからは一人で家業を切り盛りしていた。
 まだ齢二十五ながら医術の知識も腕前も藩医が一目置く程で、藩医から直々に代役を頼まれる事もある傑物だ。
 
 かつてこの日の本で数多の武将が天下の覇権を争っていた頃、戦は日常茶飯事である上に戦う術を持たぬ領民たちも巻き込まれる事が多かった。
 出兵した足軽が再起不能の傷を負い、逃げ遅れた領民が略奪を受けた末に槍や刀で無残に刺される、そんな事がまま起こる世の中だった。
 その頃の医者は、恐らく悲惨な姿の民や兵たちの姿を幾度となく目の当たりにしてきた事だろう。

 だが、朔之進は戦を知らない。
 泰平の世に生を受け、武士が槍鉄砲を向け合う合戦とは無縁の世で育ってきた。
 そんな彼がこれまで相手にしてきた患者と言えば、殆どが病を患った者や農作業の最中に怪我をした者である。
 故に、彼がここまで酷い「怪我人」を診たのは生まれて初めてだった。

 旧朝永領内の奉行所。
 静かに襖を開け縁側に出た朔之進は、後に続いて出てきた重実と共にそのまま腰を下ろした。
「普通なら、死んでいてもおかしくはありません」
 開口一番に朔之進はそう告げ、今しがた見てきた紘子の姿を思い出し痛々しげに眉根を寄せる。
「これでも、調べの責め苦を受けた罪人の体を診た事は何度かございます。しかしながら、あそこまでの仕打ちを受けた者は目にした事がございません。遊女の足抜けに関わった間男でもあれ程痛めつけられる事はございますまい。あれは……心ある人の所業とは思えませぬ」
 朔之進の声音は怒りに微かに震えていた。
「両の足は、中の指三本に繋がる筋と骨を断たれております。傷が癒えても杖無しで歩く事は叶いませんでしょう。背中も酷いものです。幾度となく鞭で打たれたのでしょう、皮が破れ膿んでいる所もございました。始めはそれ故に熱が高いのかとも思いましたが、寒い石牢で風邪でも拗らせてしまったのか、どうやら肺をやられているご様子、熱はそのせいかと。それと……」
 朔之進は自身の耳を指しながら重実に説明する。
「人の耳は大層繊細に出来ております。些細な事で耳の奥が壊れ、物が聞こえなくなる事がございます。あの姫君の耳や頬にはあざが出来ておりました。そのあざの痕から察するに……」
 朔之進は耳に掌を当てた。
「こうして、強く(はた)かれたものかと。道場で師範に厳しく当たられた若者が『音の聞こえが悪くなった』と私の所に来た事が何度かございまして、姫君の耳の様子もそれと同様のものに見受けられます。お白洲では言葉のやり取りが不自然であられたとの事、恐らくは周りの者たちの声音がろくに聞こえておらなかったのでございましょう。元のように聞こえるまでには、ひと月近くは掛かるかと」
 そこまで聞くと、重実は堪え難そうに目を瞑った。
「そこまでして……そこまでしてでも、吉住はひろに罪を被せたかったのか」
「……朝永藩は、とりわけ家老の吉住は、もはや人の理が通じる相手ではございません。父もかつてそう申しておりました。巷では家臣の鑑だのともてはやされておりましたが、私に言わせれば鬼畜生もいいところにございます。姫君をああまで傷付けたのは、恐らく姫君を稀代の悪女として引き回し晒し者にせんがため。『この罪人はこれ程の目に遭ってようやく罪を認めたふてぶてしい女である』と朝永の民に見せつけたかったのでしょう。人が己の評価を上げる術は二つに一つ、己を磨くか他者を貶めるか、でございます。そして、吉住は迷わず後者を選ぶ男にございます」
 吉住の事を話す朔之進の口調はこれまでよりもやや早口で、次から次へと止まらず出てくるそれには恨みや憎しみに近いものが感じられる。
「出来る限りの手当てはいたしました。明日も、明後日も、姫君にご快癒の兆しが現れるまでは毎日参るつもりでおります。しかしながら……」
 朔之進は重実を見つめた。
「目を覚まされるかどうかは、五分でございます。お目覚めになるのも、明日か、三日先か、はたまた……先の見えぬ長い峠が続きましょう。無論、このまま二度と目を覚まさぬ恐れもございます」
 その言葉に衝撃を受けながらも、重実は少しの間思案した後、口を開く。
「……であれば、尚更俺が踏ん張らなければな。病人の気力は周りの者が諦めた刹那にぷつりと切れる……俺の父がそうだった」
 朔之進は僅かに目を見開いた。
(峰澤の殿は何とも気丈でいらっしゃる。成程、どうりで白洲の裁きをひっくり返そうと動かれただけの事はある。このお方であれば、姫君も此度こそはお幸せになれるやもしれぬな……)
「左様にございます。殿が誰よりもご快癒をお信じになる事こそ姫君の力となりましょう。それでは、今日はこれにて失礼いたします。何かあれば、すぐに遣いをよこして下さりませ」
 重実の言動に安堵を覚えつつ、朔之進は奉行所を後にした。

 朔之進が下がり、重実が再び紘子の元に戻ろうとした時。
「ご無礼仕りまする」
 と女性が早足で近付き、重実の足元に座して頭を下げた。
 その白髪混じりの髪と声色には覚えがある。
「其方、確かイネと申したか」
 重実はイネの前に片膝を着いた。
「ひろに聞いた事がある。八束の家から鬼頭家に付き従った乳母であったな。尾張よりはるばる、大義であった」
「とんでもございません」
 イネは頭を下げたまま小さく首を横に振る。
(ひろの事が気掛かりで顔を見に来たのだろうな……)
 重実はそう推測し、
「申し遅れた。俺は清平重実、峰澤一万石の藩主である。其方がいればひろも心強いだろう、此方へ」
と、イネを紘子の眠る部屋に通した。
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