第101話 袋小路・肆

文字数 2,873文字

(何ということだ……)
 障子戸からは距離を取ったものの、事の重大さを悟った従重はあまりの衝撃にそれ以上動けない。
(兄上と紘子の婚儀が決まらない裏には斯様な訳があったというのか……。成程、これは紘子には言えぬ。聞けば紘子は清平の家を守ろうと自ら尾張に行くであろう……いや、今の紘子ならば、兄上への思いを貫くために自決するやもしれぬ……)
 誰もいない廊下で今にも泣き出しそうに顔を歪める従重だったが、廊下の向こうからゆっくりと近づいてくる人影に気付くと、なるべく足音を立てないよう足早に重実の部屋の前から離れ、人影に近付く。
「従重様、お帰りなさいませ」
 人影は、従重を探してここまで来た紘子だった。
(まずい、今紘子をあの部屋に近づける訳にはいかぬ)
「紘子か。俺を探していたのか? すまぬ、手を煩わせたな。庭の椿を見たか? 大きな花が幾つも開いておる。共に眺めようぞ」
 従重は思いつく限りの言葉を畳み掛けて紘子の気を引き、彼女の肩に手を添えそそくさとその場から離れる。

「従重様っ、少々お待ち下さ……あっ」
 有無を言わせず急ぐ従重のペースについていけず、紘子は足をもつれさせた。
「す、すまぬ!」
 従重は咄嗟に紘子を抱きとめ、彼女の顔が蒼白であることに気付くと余計に焦りを覚える。
「ああ、すまぬ……俺が急がせたばかりに……」
「い、いいえ、大事ございませ……っ」
 喉の奥からせり上がるものを覚えて、紘子は慌てて口を閉じ、従重を押しのけた。そして、従重から顔を背け、着物の袖を口に当てながら廊下の隅で蹲る。
「……紘子?」
 普段の従重なら、こうした彼女の異様なさまを見れば駆け寄りすぐに大声で人を呼んでいただろう。
 しかし……この時の彼は金縛りにでも遭ったかのようにその場に立ち尽くしていた。
(俺は……知っている。こうしたおなごを、見たことがある……)

『あの子、しくじったね』

 かつて城下の旅籠「とき屋」に入り浸っていた頃、そこの飯盛女だった「お雪」こと雪が囁いた言葉を従重は思い出す。
(あれは、確かとき屋の廊下で見た……)

 従重が紘子への恋心を自覚する少し前のこと。
 お雪と一晩を共にした従重は、明け方とき屋を出ようと彼女を伴い玄関に向かって廊下を歩いていた。
 手入れのぞんざいな小さい中庭に気怠げに目をやると、庭を挟んだ向こうの廊下で飯盛女が一人しゃがみ込んで俯いている。
「何だ、あの女は。病か」
 軒下でも覗いているのか、地面に頭を突っ込むようにして時折上体を上下させる飯盛女を病持ちかと言う従重に、彼の横にいたお雪が声を潜めて囁いた。
「あの子、しくじったね」
「しくじった?」
 従重が訝しげに問うと、お雪は哀れむように飯盛女を一瞥した後、
「客に子種を仕込まれたのさ。可哀相に」
 と答える。
「あの子、年季が明けるまでまだだいぶあった筈だよ。さっさと腹の子を始末しないと取り返しのつかないことになるだろうねぇ……」
 お雪の言葉を聞いても、この時の従重は「ふん」と小さく息を漏らしたきりで、飯盛女に何を感じることもなく帰路についた。

 しかし、あの時見た飯盛女の姿が紘子に重なった途端、従重の中にえも言われぬ感情が湧き起こる。
(紘子、紘子、お前は……お前は、もしや……)
 渦を巻くのは様々な感情がない交ぜになった想いであり、甦っては駆け抜けていくのはこれまでの紘子との思い出であり、その末にはっきりと見えるのは、己の中にある確固たる意志。
「紘子」
 こうも穏やかに人の名を呼んだことなど、かつてあっただろうか。
 従重は、今こうして紘子の前にいる己がまるで自身の知る己ではないかのような不可思議な気分を覚えながら、彼女の傍に膝を着いた。
 幼い頃に何度か母にされたように、従重はうずくまる紘子の背にそっと手を当てる。
「お前……腹に子がおるのではないか?」
 従重の口から囁くようにして告げられた問いに、紘子は信じられないとばかりに愕然とした顔を見せた。
「そのようなこと、あるわけが……」
「ないと言えるか?」
 続く問いへの答えは、松代の医師である蔓崎朔之進がかつて紘子に答えている。

『恐らく姫君は――』

(「――この先お子を望めましょう」……あの時、蔓崎先生は私にそう仰った。けれど、それはまだ先で、決して確かなことではなかった筈。それが、こうも早く確かなことになったと……?)
 にわかには信じがたい従重の言葉と朔之進の診断が脳内で交互に迫り、紘子は無言でかぶりを振るばかりだ。
「あれこれと訊くは無粋ゆえ子細尋ねるような真似はせぬが……心当たりはあろう?」
 砂浜を撫でて消えていく波のように優しく問われ、紘子は次第に冷静さを取り戻していく。
(元々定まらぬ体の具合ゆえ、いつもと違っていても調子が優れぬだけと見過ごしていたことが幾つもある。よくよく思い返せば、すべてその兆しだったのやもしれない……)
「……すまぬ、お前を不安にさせるつもりはないのだ。だが、俺も冗談で言うたわけではない。紘子、立てるか? 部屋まで送ろう」
 無意識のうちに沈んだ表情を浮かべている紘子を思ってか、従重の口調はいつもの一方的でどこか威圧的なそれとは違い、泣く子をあやすかのような柔和で静かなものだった。
(従重様は、いつも私が弱っている時に手を差し伸べて下さる。けれど、私はそれにいつまで甘えるつもりなのか……)
 この城に来た日、従重が自分に抱いてきた想いを垣間見たからこそ、そして、彼がその想いを封じて身を引いたと知ったからこそ、紘子はこのまま従重の手を取ることに強い躊躇いを覚える。
 しかし、従重もまた、紘子のそうした想いに気付いていないわけではない。
「気に病むことなど何もない。俺とお前は家族ではないか。お前がもしも兄上の子を身籠ったのであれば、俺はその子の『叔父上』なのだ。家族など糞食らえと思うていた俺が、叔父となることにこれほど心を温められておる……俺は、今途方もなく嬉しいのだ」
「従重様……ありがとうございます」
 紘子は従重の手を借りて立ち上がり、歩き出した。従重は、先程までとは打って変わってゆっくりと紘子に歩調を合わせる。
「紘子、いつぞや俺がお前に清平の姓を名乗る者としての覚悟を求めたことがあったな。覚えておるか」
 静かにそう切り出した従重に、紘子は歩きながら
「はい。『己が真に守りたいと思うものにだけは命を懸ける覚悟を持て』と……」
 と答えた。それを聞いて、従重はふと歩みを止め、紘子も立ち止まる。
「お前が命を懸けてでも守らねばならぬものは、藩校でもこの清平の家でも、まして兄上でもない。お前にしか守れぬものがある……もう分かるな?」
「……はい」
 互いが抱く答えが同じであることを悟り、二人の顔にようやく仄かな笑みが浮かんだ。
(案ずるな、紘子。お前の幸いは、俺が守ってみせる……何に代えてでも。俺にしかできぬやり方で、必ずや守ってみせる)
 紘子を部屋に送り届けるまで続いていた従重らしからぬ穏やかな口調が彼の壮絶な覚悟の裏返しであったと紘子が思い知るのは……この少し後のことである。
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