第78話 屏風一枚
文字数 3,542文字
夕暮れ近くになってようやく着いた最初の宿は、松代領内の旅籠だった。
諸々の手配を済ませるために先に入った三木助を宿先で待っている間、小平次は枇杷丸を繋ぎに行き、イネは辺りの小間物屋や漬物屋を覗いている。
「疲れただろう? 昨夜もろくに寝ていなかったようだしな」
気遣う重実に紘子は首を横に振りながら微笑んだ。
「いいえ、道中が思いの外楽しくて。それにしても、三木助殿と小平次殿は真に仲のよろしい兄弟ですね。私には兄弟がいませんでしたから、羨ましく思います」
「そうだな……俺と従重とは大違いだ」
「……従重様は息災でいらっしゃりますか?」
紘子はあえて兄弟仲には触れず、従重のことだけを尋ねる。
「ああ、お前と田邉殿のおかげでこれといった咎めも受けず呑気に暮らしてる。それでもまぁ……色々思う所はあるみたいでな、長屋で子供らに平家物語を仕込んでる」
苦笑交じりの重実が答えた中身に紘子は瞠目した。
「従重様が、長屋で?」
「ああ、お前が峰澤に戻った時に居場所がないのは忍びないとな。店代 もあいつが払ってる。お前の居場所なら俺がどうにでもする故 心配していないが、民への教育の場が城下に残るのは俺としても有り難い。何だかんだで、従重には助けられている……少し前までは考えられんことだったがな」
「峰澤に戻りましたら、従重様にお礼を申し上げなくては」
紘子は峰澤の方角に延びる道の更に先を見つめながら、記憶に残る従重の姿を思い出す。
常に周囲に牙を剥くような態度を取りながらも、その実はひどく繊細で、己の立場を受け入れられない彼はいつも寂しそうだった。
(だが、それは強い優しさを秘めておられるからだった……)
本当の彼は、他人の痛みに敏感で、癒したいと思う相手のためなら何でもしてしまう。
ただ、その方法が時に大きな誤りであったりするせいで誤解を生み、彼から人を遠ざけるだけ。
(いつからか従重様の面が柔らかくなり、やはりこの方は元来お優しい方なのだと思っていたが……あの長屋を守り、子供たちを……何という大きな優しさだろう。お目にかかったら、心から礼を尽くそう)
従重に思いを馳せる紘子の頭に、重実の手が乗った。
「重実様?」
従重のこととなるといつも苦々しい顔をする重実だったが、今の彼は穏やかな微笑を湛えている。
「あいつとは一生分かり合えぬままかと思っていたが、お前が俺たちに関わってから大きく変わった……あいつも、俺も。お前には、どれだけ礼を言っても足りん」
「私は何も……」
紘子がそう謙遜しているところに、三木助が
「殿ー!」
と今にも泣き出しそうな顔で駆けてきた。
「如何した」
呆れ交じりに重実が問うと、三木助はこれでもかというほどに腰を折る。
「申し訳ございません! 私の不手際で、部屋が一つしか取れておりません!!」
「……は?」
いくら家臣との距離を近く持つ重実でも、家老の息子二人に年頃の娘、更に老齢に差し掛かっている乳母と同室で雑魚寝は想定外だ。
せめて二部屋、紘子とイネを男三人とは別の部屋にと考えていたのだが……。
「他の宿は空いてないのか?」
「はい……それが、ちょうど交代途上の雄藩が泊まるらしく……」
「本陣脇本陣では足らんほどの雄藩が何故この時分に交代か……」
江戸とほぼ日帰りで往復できる峰澤では考えられないことだが、参勤交代はそれだけ日程も金も食うものであり、雄藩であっても様々な事情で出立が遅れることもある。
「かくなる上は、この場にて――」
三木助は突然その場に膝をつき脇差しを抜こうとした。
「宿ごときで腹を切るな馬鹿者!!」
「然程思い悩むようなことではありませんから!」
重実が血相を変えて脇差しを取り上げ、紘子は三木助の腕を取って立つように促す。
「これは御公儀からのお役目を受けての旅ではありません、故に重実様のためにお部屋を用意出来ずとも、重実様はお気になさらないでしょう。それに、私もイネも、殿方と相部屋で宿に泊まったことが何度かあります。一晩くらい、どうということはありません」
(……と言っても、幼い頃からの馴染みで信の置ける紘蓮殿だけだったが……いや、偽りではないのだからこの際良いだろう……!)
「ひ、紘子殿……」
やや話を盛った気は否めないものの、弱々しい眼で見つめる三木助を励まそうと紘子は必死だ。
「新たな宿を探したり、無理を言って部屋を都合したりなどすれば、余計な銭が掛かります。そのようなことに銭を使うくらいなら、ご家老様に何か良い土産を買って差し上げましょう?」
「ひろの言う通りだな。とりあえず、今夜は間仕切りを借りて凌ぐぞ。三木助、小平次と一緒に女将から間仕切りになりそうなものを借りて部屋に運べ」
「はっ!」
紘子に諭され重実に命じられた三木助は、枇杷丸を繋ぎ終えた小平次を連れて宿に入り、紘子はイネが戻ると重実と寄り添うようにしてその後を追った。
旅籠が用意した間仕切りは一枚の屏風だった。
部屋は広めでどうにか五人分の布団は敷ける。
きゅうきゅうに敷いた布団の二人目と三人目の間にやっとのことで隙間を作り、そこに置かれた屏風を見てイネは小さく吹き出した。
「屏風の隣には寝相の悪いお方は寝てはいけませんなぁ。ぶつかればすぐに屏風が倒れてしまいましょう。ふふふっ」
この状況を楽しめるイネの懐の深さに誰よりも救われているのは三木助だろう。
更に、この後イネが口を滑らせたおかげで場は一層和む。
「故に姫様、姫様は部屋の最奥にてお休み下さりませ。かねてよりこのイネの鼻が低いのは、姫様に夜中に幾度となく鼻をぶたれた故にございますので」
「イネっ!」
紘子が止めようも時既に遅し。
「借り物の屏風に穴でも開けられたら敵わんからな……ひろは奥で寝ろ」
「ならば、屏風はイネ殿とこの三木助で支えましょう」
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら重実が軽口を叩いた辺りでようやく三木助にも笑顔が垣間見えるようになった。
結局、部屋の入口に最も近く下座に当たる所から、小平次、重実、三木助、屏風を挟んでイネ、そして紘子の順に床を取ることとなった。
小平次が入口そばに横になるのには、年功序列や屏風云々よりも大きな理由が他にある。
万一賊の襲撃を受けた際にいの一番に盾になるためだ。
そう言ってしまうと酷く物騒で元服前の子供に対して非情にも聞こえるが、最も狙われやすい婦女を奥にして男衆が腕の立つ順に入口に並ぶのがこの場では理想的で、彼らはそれを実践したにすぎない。
むしろ、最年少ながら最も腕を見込まれた小平次としては、最悪の事態に対する恐怖よりもこの場を任された喜びの方が勝っていた。
とはいえ、歩き疲れていた旅人たちはどこの布団であろうとあっという間に夢の世界に引きずり込まれる……一人を除いては。
(眠れない……)
皆が泥のように眠る中、紘子だけは一向に寝付けずにいた。
努めて瞼を閉じるものの、障子が風でカタリと僅かな音を立てただけではっと目を開け、廊下がギシリと小さく軋む度に思わず身構えてしまう。
だが、やはり体は強い疲労感を覚えていて、静かになった途端に眠りの淵にはまっていく……のだが。
『鬼頭幹子、見つけたり!』
突然襖が開け放たれ、数人の役人が部屋に入り込み、紘子を畳に押し付ける。
ぐるりと縄を回され、ぎゅうぎゅうに縛られ引きずられるように連行され……。
「――っ!!」
悲鳴こそ上げなかったものの、紘子はひゅっと息を呑みながら跳ね起きた。
慌てて視線を視野一杯に巡らせる。
ここは……松代の旅籠だ。
役人などいるわけもなく、自身も縛られてなどいない。
(ゆ、夢か……)
浅い呼吸を整えながら、紘子は
(もう、逃げも隠れもしなくて良いのだ……何も恐れることはないのだ……過ぎたことにいつまで囚われているつもりだ)
と、何度も己に言い聞かせながら横になった。
しかし、床に潜り目を瞑ると、今度は晒された両親の首が鮮明に瞼裏に甦る。
「ひっ」
耐えきれず漏れた小さな悲鳴。
いよいよ目を閉じることさえ恐ろしくなり、紘子は布団の中で小刻みに震え出した。
どれ程そうしていたであろうか……。
「ひろ?」
ひそめた声でそっと呼ぶ声が頭上から降ってきた。
肩をびくりと跳ね上がらせながらも布団から顔を出し見上げると、布団を抜け紘子の枕元に跪く重実の姿が障子越しの月光でぼんやりと浮かび上がっている。
「あ……」
下顎がカタカタと震え、名前さえ引っ掛かって出てこない紘子を見て、重実は心配そうに眉根を寄せた。
「……少し、抜けるか?」
囁きとともに差し伸べられた重実の腕に、紘子は無言でしがみつく。
重実は、イネらを起こさないようそっと紘子を横抱きに抱え上げると、慎重に襖を開けて廊下に出た。
諸々の手配を済ませるために先に入った三木助を宿先で待っている間、小平次は枇杷丸を繋ぎに行き、イネは辺りの小間物屋や漬物屋を覗いている。
「疲れただろう? 昨夜もろくに寝ていなかったようだしな」
気遣う重実に紘子は首を横に振りながら微笑んだ。
「いいえ、道中が思いの外楽しくて。それにしても、三木助殿と小平次殿は真に仲のよろしい兄弟ですね。私には兄弟がいませんでしたから、羨ましく思います」
「そうだな……俺と従重とは大違いだ」
「……従重様は息災でいらっしゃりますか?」
紘子はあえて兄弟仲には触れず、従重のことだけを尋ねる。
「ああ、お前と田邉殿のおかげでこれといった咎めも受けず呑気に暮らしてる。それでもまぁ……色々思う所はあるみたいでな、長屋で子供らに平家物語を仕込んでる」
苦笑交じりの重実が答えた中身に紘子は瞠目した。
「従重様が、長屋で?」
「ああ、お前が峰澤に戻った時に居場所がないのは忍びないとな。
「峰澤に戻りましたら、従重様にお礼を申し上げなくては」
紘子は峰澤の方角に延びる道の更に先を見つめながら、記憶に残る従重の姿を思い出す。
常に周囲に牙を剥くような態度を取りながらも、その実はひどく繊細で、己の立場を受け入れられない彼はいつも寂しそうだった。
(だが、それは強い優しさを秘めておられるからだった……)
本当の彼は、他人の痛みに敏感で、癒したいと思う相手のためなら何でもしてしまう。
ただ、その方法が時に大きな誤りであったりするせいで誤解を生み、彼から人を遠ざけるだけ。
(いつからか従重様の面が柔らかくなり、やはりこの方は元来お優しい方なのだと思っていたが……あの長屋を守り、子供たちを……何という大きな優しさだろう。お目にかかったら、心から礼を尽くそう)
従重に思いを馳せる紘子の頭に、重実の手が乗った。
「重実様?」
従重のこととなるといつも苦々しい顔をする重実だったが、今の彼は穏やかな微笑を湛えている。
「あいつとは一生分かり合えぬままかと思っていたが、お前が俺たちに関わってから大きく変わった……あいつも、俺も。お前には、どれだけ礼を言っても足りん」
「私は何も……」
紘子がそう謙遜しているところに、三木助が
「殿ー!」
と今にも泣き出しそうな顔で駆けてきた。
「如何した」
呆れ交じりに重実が問うと、三木助はこれでもかというほどに腰を折る。
「申し訳ございません! 私の不手際で、部屋が一つしか取れておりません!!」
「……は?」
いくら家臣との距離を近く持つ重実でも、家老の息子二人に年頃の娘、更に老齢に差し掛かっている乳母と同室で雑魚寝は想定外だ。
せめて二部屋、紘子とイネを男三人とは別の部屋にと考えていたのだが……。
「他の宿は空いてないのか?」
「はい……それが、ちょうど交代途上の雄藩が泊まるらしく……」
「本陣脇本陣では足らんほどの雄藩が何故この時分に交代か……」
江戸とほぼ日帰りで往復できる峰澤では考えられないことだが、参勤交代はそれだけ日程も金も食うものであり、雄藩であっても様々な事情で出立が遅れることもある。
「かくなる上は、この場にて――」
三木助は突然その場に膝をつき脇差しを抜こうとした。
「宿ごときで腹を切るな馬鹿者!!」
「然程思い悩むようなことではありませんから!」
重実が血相を変えて脇差しを取り上げ、紘子は三木助の腕を取って立つように促す。
「これは御公儀からのお役目を受けての旅ではありません、故に重実様のためにお部屋を用意出来ずとも、重実様はお気になさらないでしょう。それに、私もイネも、殿方と相部屋で宿に泊まったことが何度かあります。一晩くらい、どうということはありません」
(……と言っても、幼い頃からの馴染みで信の置ける紘蓮殿だけだったが……いや、偽りではないのだからこの際良いだろう……!)
「ひ、紘子殿……」
やや話を盛った気は否めないものの、弱々しい眼で見つめる三木助を励まそうと紘子は必死だ。
「新たな宿を探したり、無理を言って部屋を都合したりなどすれば、余計な銭が掛かります。そのようなことに銭を使うくらいなら、ご家老様に何か良い土産を買って差し上げましょう?」
「ひろの言う通りだな。とりあえず、今夜は間仕切りを借りて凌ぐぞ。三木助、小平次と一緒に女将から間仕切りになりそうなものを借りて部屋に運べ」
「はっ!」
紘子に諭され重実に命じられた三木助は、枇杷丸を繋ぎ終えた小平次を連れて宿に入り、紘子はイネが戻ると重実と寄り添うようにしてその後を追った。
旅籠が用意した間仕切りは一枚の屏風だった。
部屋は広めでどうにか五人分の布団は敷ける。
きゅうきゅうに敷いた布団の二人目と三人目の間にやっとのことで隙間を作り、そこに置かれた屏風を見てイネは小さく吹き出した。
「屏風の隣には寝相の悪いお方は寝てはいけませんなぁ。ぶつかればすぐに屏風が倒れてしまいましょう。ふふふっ」
この状況を楽しめるイネの懐の深さに誰よりも救われているのは三木助だろう。
更に、この後イネが口を滑らせたおかげで場は一層和む。
「故に姫様、姫様は部屋の最奥にてお休み下さりませ。かねてよりこのイネの鼻が低いのは、姫様に夜中に幾度となく鼻をぶたれた故にございますので」
「イネっ!」
紘子が止めようも時既に遅し。
「借り物の屏風に穴でも開けられたら敵わんからな……ひろは奥で寝ろ」
「ならば、屏風はイネ殿とこの三木助で支えましょう」
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら重実が軽口を叩いた辺りでようやく三木助にも笑顔が垣間見えるようになった。
結局、部屋の入口に最も近く下座に当たる所から、小平次、重実、三木助、屏風を挟んでイネ、そして紘子の順に床を取ることとなった。
小平次が入口そばに横になるのには、年功序列や屏風云々よりも大きな理由が他にある。
万一賊の襲撃を受けた際にいの一番に盾になるためだ。
そう言ってしまうと酷く物騒で元服前の子供に対して非情にも聞こえるが、最も狙われやすい婦女を奥にして男衆が腕の立つ順に入口に並ぶのがこの場では理想的で、彼らはそれを実践したにすぎない。
むしろ、最年少ながら最も腕を見込まれた小平次としては、最悪の事態に対する恐怖よりもこの場を任された喜びの方が勝っていた。
とはいえ、歩き疲れていた旅人たちはどこの布団であろうとあっという間に夢の世界に引きずり込まれる……一人を除いては。
(眠れない……)
皆が泥のように眠る中、紘子だけは一向に寝付けずにいた。
努めて瞼を閉じるものの、障子が風でカタリと僅かな音を立てただけではっと目を開け、廊下がギシリと小さく軋む度に思わず身構えてしまう。
だが、やはり体は強い疲労感を覚えていて、静かになった途端に眠りの淵にはまっていく……のだが。
『鬼頭幹子、見つけたり!』
突然襖が開け放たれ、数人の役人が部屋に入り込み、紘子を畳に押し付ける。
ぐるりと縄を回され、ぎゅうぎゅうに縛られ引きずられるように連行され……。
「――っ!!」
悲鳴こそ上げなかったものの、紘子はひゅっと息を呑みながら跳ね起きた。
慌てて視線を視野一杯に巡らせる。
ここは……松代の旅籠だ。
役人などいるわけもなく、自身も縛られてなどいない。
(ゆ、夢か……)
浅い呼吸を整えながら、紘子は
(もう、逃げも隠れもしなくて良いのだ……何も恐れることはないのだ……過ぎたことにいつまで囚われているつもりだ)
と、何度も己に言い聞かせながら横になった。
しかし、床に潜り目を瞑ると、今度は晒された両親の首が鮮明に瞼裏に甦る。
「ひっ」
耐えきれず漏れた小さな悲鳴。
いよいよ目を閉じることさえ恐ろしくなり、紘子は布団の中で小刻みに震え出した。
どれ程そうしていたであろうか……。
「ひろ?」
ひそめた声でそっと呼ぶ声が頭上から降ってきた。
肩をびくりと跳ね上がらせながらも布団から顔を出し見上げると、布団を抜け紘子の枕元に跪く重実の姿が障子越しの月光でぼんやりと浮かび上がっている。
「あ……」
下顎がカタカタと震え、名前さえ引っ掛かって出てこない紘子を見て、重実は心配そうに眉根を寄せた。
「……少し、抜けるか?」
囁きとともに差し伸べられた重実の腕に、紘子は無言でしがみつく。
重実は、イネらを起こさないようそっと紘子を横抱きに抱え上げると、慎重に襖を開けて廊下に出た。