第85話 北脇兄弟と重実・参

文字数 3,144文字

「殿……この北脇三木助、殿をお支えするため更に万事に励みます!」
 主君に「宝」と評された三木助は完全に舞い上がっている。
「励むのは結構だが、お前は刀を抜くなよ。危なっかしくて仕方ない」
 苦笑する重実、彼を微笑ましく見つめる紘子……と、その場は先程までの辛気臭さと打って変わって随分と和やかになった……かと思いきや。
「殿! よろしいですか!」
 今度は襖の向こうから鉄砲玉のように小平次の声が突き抜けてきた。
 重実は紘子の顔を、紘子は三木助を、三木助は二人を交互にそれぞれ見つめ、三人ほぼ同時に首を傾げる。
「小平次も部屋の外にいたのか?」
「いいえ、私は紘子殿と二人で参りました」
「小平次殿はイネと一緒にいたと思ったのですが……」
「……ということは、小平次は別件か」
 ここで何を言っても始まらないとばかりに、重実は
「入れ」
 と小平次を部屋に通した。
 そして、小平次のいで立ちに三人は唖然とする。
 小平次は両袖に襷を掛け、額に鉢巻き、両手に木刀を一本ずつ握っていた。
 部屋に入るなり正座し平伏した小平次は、頭を下げたまま言い放つ。
「殿、私と勝負して下さい!」

「……は?」
 まるで果たし合いを申し込まれたようなこの展開に、重実の口からは間抜けな音が零れた。
「私が殿に勝った暁には、紘子殿を兄上の奥方としてお迎えさせて頂きます!」
「はぁ!?」
「……ええっ?」
 声を裏返させる三木助と言葉の出ない紘子に向けて小平次は面を上げる。
「兄上、言うていたではありませんか。紘子殿は兄上と殆ど年が変わらぬと。年の近い男女の方が何かと話も合いましょうし、気兼ねもいらぬではないですか。それに兄上は紘子殿を見る時いつも腑抜けた顔でだらしなくしているではないですか、(まこと)のところ紘子殿を可愛らしいと思っているのでしょう? 殿の御正室ではなく己の妻になってくれないかなぁなんて考えているのでしょう!?」
「ばっ、馬鹿!!」
 年頃の男子ならではの浅ましい欲望を弟に暴露された三木助は顔を朱に染め慌てて重実の顔色を窺った。
「と、殿、小平次の戯言など真に受けませんよう……」
「……小童の言うことなんぞ、まともに取り合っていられるか」
 重実は冷めた目で小平次を見据えているが、眉といい鼻といい時折ひくつかせる重実の様子に三木助は気が気ではない。
(そのようなことを仰りながら思い切り真に受けていらっしゃるではないですか!!)
「そ、そうですよ殿、これは小平次の先走りにて……。こ、小平次もいい加減なことを言うな!」
 三木助は小平次を黙らせようとするが小平次は引かない。
「紘子殿はどうなのですか! 兄上は、武芸はてんで話になりませんが国家老の嫡男でゆくゆくは父上のお役目を継ぎましょう。聞けば紘子殿は旗本家の姫君、大名である殿よりも家老の家柄である兄上の方が家格も近く気が楽でしょう!」
「それは……」
 小平次の言い分にももっともなところがあり、紘子は何と言葉を返そうかと一瞬まごついた。   
 すると、それを見た重実の顔に焦りが浮かぶ。
「おい、ひろ、お前よもや……」
「断じてございませんっ」
 紘子は即座に重実の言葉を切り、小平次に向き直る。
「旗本家の娘とはいえ既に家を取り潰された身の私に斯様な申し出を頂けるのは大層有り難いことではございますが、私の心は重実様にのみ向いております……」
 ……と、そこまで言ったところで紘子は思わず口を噤んだ。
 開いた襖の陰からこちらを覗く人影に気付いたからだ。
(イネっ!)
 襖の陰に正座していたのは他でもないイネで、彼女は何やら身振り手振りで懸命に紘子に訴えかけている。
(姫様、お殿様をけしかけて下さりませ!)
(わ、私が重実様を!? 一体どうやって……)
(理由など何でもよろしいでございましょう! 疾く、疾くでございます!)
 言葉を交わさずともイネが言わんとしていることは紘子には何となく察しがついた。
(このような時、「後は野となれ山となれ」とでも言うのだろうか……)
 紘子は困ったように溜め息を吐くと、重実を横目で見やる。
「……ですが、重実様。重実様が小平次殿に勝てば全て丸く収まるのではないでしょうか」
「は?」
 紘子から思いも寄らぬ一言が飛び出し、重実はぽかんと口を開けた。
「私は、小平次殿が何と言おうと、重実様が小平次殿に負ける筈はないと思っておりますので何の不安もございませんが……重実様はそうではないのですか?」
「な……何を言うか! 俺はまだ二十一だ、小童に負ける程老け込んではいない! ああそうだ……そうだな、負けなければそれで済む話だ」
 この清平重実という男、切れ者の割には紘子が絡むとどうにもちょろい男に成り下がる。
 とはいえ、これは小平次と本気で向き合うまたとない機会であることも重実は意識の片隅で自覚していた。
「……いいだろう、小平次。受けて立つ。だが、肋が折れようと頬骨が砕けようと文句は言うなよ。それと、俺が勝ったらお前には俺の(めい)に一つ従ってもらう。覚悟しておけ」
「……望むところにございます」
 小平次はキッと重実を見上げ、彼に木刀を一本差し出す。
(姫様、お見事にございます!)
 紘子の視界の奥ではイネが無言の鬨を上げていた。

 宿の裏手、普段は下女らが仕事の合間に立ち話に興じる憩いの場が、突如として決闘の場となる。
「旅の小童が主に噛みついたって?」
「どれ、どれ程の腕前かね」
 女将に番頭に下男下女らが野次馬となり井戸端や土間の陰から見物する中、小平次と重実は向かい合った。
 一礼して木刀を中段に構えたまま、小平次はなかなか踏み込まない。
(……このような殿は、初めてだ)
 小平次はじりじりと横にずれながら重実との間合いを測るばかりだ。
 正確には、小平次は踏み込まないのではなく「踏み込めない」のだ。
(殿は本気だ……)
 重実の目は真っ直ぐに小平次を射抜き、表情には笑みも余裕も垣間見えず、完全に小平次を「殺しに」掛かっているのが分かる。
(しかし、私はずっと殿にこうしてお相手して頂きたかった。ようやくこの機を得たんだ……私は勝つ、勝つんだ!)
 カッと目を見開いた刹那の後には、小平次は既に重実の間合いに滑り込んでいた。
 重実の小手を取りに行くが、絶妙なタイミングでかち上げられ、今度は反対に重実が小平次の胴に切り込む。
「負けないっ!」
 小平次は直ぐに構え直し重実の木刀を弾いた。
 目にも留まらぬ速さの凄まじい攻防に野次馬たちは勿論のこと紘子らも息を呑み、沈黙したまま見守ることしか出来ない。
 木刀の激しくぶつかり合う音が響く中、やがて鍔迫り合いのような体勢で正面から二人がぶつかると、勝負は一気に傾いていく。
 押して引いての駆け引きの後、重実の木刀の先が小平次の小手を取りに行った。
 小平次がそれを紙一重で躱すのと、重実が更に一歩深く踏み込むのはほぼ同時。
 そして――躱された切っ先はひたりと小平次の首筋に当てられた。
「……勝負あったな」
 降ってきた重実の声を聞いて、ようやく小平次の顔にいつもの快活な笑みが戻る。
「殿、お見事でございました」

「小童じゃ勝てねぇか」
「あの殿様も大人げないね」
 野次馬たちはめいめい勝手なことを言いながら仕事に戻っていった。
 一方、重実は礼をした後小平次の前につかつかと進み出る。
「さて、約束だ。俺の命を一つ聞いてもらうぞ」
「は、はい……」
 緊張した面持ちの小平次の前で、重実はニッと悪戯な笑みを浮かべた。
「峰澤に帰ったら、お前を俺の小姓兼藩剣術指南役助勤に命ずる。辞退は認めん」
 小平次は目を白黒させるばかりで呆然としている。
「返事は!」
 重実に活を入れられ、小平次は半分わけが分からぬまま
「ぎょ、御意!」
 と、やたらと甲高い声で返事をするのだった。
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