第91話 再会・壱

文字数 3,041文字

 紘子を背負いながら城の坂道を登る重実は、天守手前の門前で彼女を「よいしょ」と背に上げ直した。
(こいつ、少々顔がふっくらしたとは思っていたが……目方が増えたか?)
 松代で抱えていた頃に比べ、紘子が心なしか重い。
(まぁ、この程度なら難なく……いや、まだ重くなっても背負えるな。何より、猫もおなごも痩せ細っているよりは丸い方が……)
 つい、無意識のうちに口元が緩んでしまう。
 だが、紘子の方は「よいしょ」に眉を顰めていた。
(重実様はここまでずっと私を背負ったままで上り坂を歩いておられる……やはり、私が重いのではなかろうか……)
「あの……重実様、私そろそろ……」
 重実から離れることに強い不安を覚えつつも、紘子が意を決してそう口にした時。
「殿、道中ご無事で何よりにございます」
 歩み寄る足音とともに重実を迎える声がして、紘子は口を噤む。
(この声は、確かご家老様……)
「忠三郎、変わりはなかったか」
 重実の返しで確信した紘子は、このままではいよいよ無礼だとばかりに重実の背を押して降りようとしたが、
「こら、何を暴れる」
 と重実が頑として腕を緩めない。
「ご、ご挨拶を……」
 紘子が訳を話そうとするが、時既に遅し。
「殿、紘子殿はどこかお加減でも?」
「ああ、旅の疲れが出てな。このまま部屋に運んで休ませてやりたい」
「ならばすぐに女中に床を用意させましょう」
 忠三郎のその一言に、重実は
「女中?」
 と首を傾げた。
 峰澤に女中がいないわけではない。
 ただ、重実が家督を継いでからは住み込みの女中は置いておらず、もうじき日暮れのこの時分女中たちは皆とうに引き上げている筈だ。
 怪訝そうな顔をする重実に、忠三郎は仄かに笑みを浮かべて背後を振り返り、
「雪、これへ」
 と女中を呼び寄せた。

(「ゆき」……?)
 忠三郎が口にした女中の名を聞いて、今度は紘子が目を細め記憶を手繰り寄せるように視線を彷徨わせる。
 そして、その視線が小走りにこちらに駆け寄る女中の姿を捉えた時、瞳は大きく見開かれた。
「よもや……」
「ひろ、如何した?」
 ただならぬ感情を秘めた紘子の呟きを耳にした重実は、そっと彼女を地に下ろす。
 ふらつきながらもようやく地面に立った紘子の前で、女中は跪き深々と頭を下げた。
「お久しゅうございます、奥方様」
 「奥方様」という呼び方で、紘子は「ゆき」の正体に確信を持つ。
「ああ……雪、雪なのかっ。どうか(おもて)を上げて、顔をよく見せて」
 紘子に促され、雪が立ち上がり顔を上げた。
 朝永で別れてから二年以上、少しやつれたようにも見えるがその顔は間違いなく雪だ。
「よもや峰澤で会えようとは……このようなことが……このようなことが……」
 紘子は雪の手を取る。
「ずっと、ずっと気掛かりであった。城に残った貴女の身の上を案じながらも、私にはどうしてやることも出来ず……息災であったか?」
「まあ……色々ございました。鬼頭様の御家がお取り潰しになって、朝永のお城が無くなって、暫くの後にこちらに流れてきましたが、幸いにもこうして息災でございます。奥方様はすっかりお美しくなられまして」
「雪、その『奥方様』はまだ尚早だ……」
 そう言って苦笑する紘子に、雪は
「じきにそうなるのでございましょう? ですが、朝永にいらした時と同じ呼び方ですし、お気に病まれるのでしたら、『奥様』にいたしましょうか」
 と悪びれる様子もなく、紘子は諦めた口調で
「……雪に任せる」
 と返した。

「忠三郎、あれはどういうことだ?」
 紘子が雪と話している間、重実は忠三郎を連れて彼女たちから少し離れると、雪のことを問い質す。
「紘子殿の御身を思えば、乳母殿だけではさぞ荷が重かりましょう。住み込みの部屋女中の一人くらいは居らねば……」
「それは分からんでもないが、俺の帰りを待てなかったのか? いや待て……俺の名代は従重だ、従重があの雪とやらを雇うことを許したのか?」
 忠三郎は紘子をちらりを見やると、口元に手を当てながら
「……身請けでございます」
 と少々気まずそうに答えた。
「はあっ!? 身請――」
「お静かに願います! 紘子殿にはあまり聞かせぬ方がよろしいかと」
 思わず声を上ずらせる重実を必死で黙らせた忠三郎は、やれやれといった調子で嘆息した後、声を潜めて事の次第を話す。
「雪は、従重様が通われていた旅籠『とき屋』の飯盛女でございました。とんだ偶然もあったもので、何度か会って話すうちに従重様は雪の素性を知り、雪であれば紘子殿のことをしかと世話出来るであろうし、紘子殿も見知らぬ女中に傍に居られるよりは気心の知れた雪の方が暮らしやすかろうと雇うことにしたのです。ただ、雪はまだとき屋での年季が明けておらず、故に従重様が身請けを」
「……事情は分かった。で、雪は何故飯盛女に?」
 この問いに、忠三郎は気まずそうにしながら紘子から更に顔を背けた。
「従重様がお聞きになった限りでは、鬼頭家が取り潰され朝永の城から一方的に暇を告げられてしまい、病持ちの両親と当時まだ幼かった弟を養うには身を売るより他なかったとのことにございます」
「成程な……確かに、朝永取り潰しの端を作ったひろがそれを知れば、己を責めるだろうな。して、身請け金はいくらだったんだ?」
「……二十両、で……・ございます」
 いくら申し訳なさげに言おうと二十両は二十両、石高一万石の小大名にとっては決して端金と言える額ではない。
「にっ……! 従重の野郎……。忠三郎、暫くの間俺と従重の夕餉から魚を抜け」
「……承知しました」
「ああ、それと――」
 重実は下がろうとする忠三郎を呼び止める。
「ひろの部屋は俺の隣にしてくれ。暫くはあれを独りには出来ん」
 真剣な面持ちで命じる重実を見て、忠三郎は数秒の間考え込む仕草を見せた。
「……いつぞや、手負いの身でここから突然去られた時のことを気にしておいでですか?」
「ん? ああ、そんなこともあったな。だが、それとこれとは別で……」
(……待てよ、案外別の話ではなかったのかもしれんぞ)
 かれこれ半年以上前のこととなるだろうか。
 紘子は、小間物の行商の娘、たきの身売り騒動に巻き込まれ深手を負った。
 江戸帰りの重実が偶然現場に遭遇し紘子を城に運んだおかげで彼女は一命を取り留めたものの、手当てを受けたその晩に紘子は城を抜け出している。
 紘子は城を出てすぐの道で倒れ、通り掛かった従重によって長屋に運ばれたのだが、紘子には今も当時の記憶がない。
(ふと目を覚ました時に、朝永と良く似た場所にいたせいで今と昔の区別がつかなくなって、朝永の城と勘違いして錯乱した……と考えれば諸々合点が行くな。道中の旅籠でも昔のことを思い出して震えていたほど、朝永の件はあいつの心に随分と深い傷を負わせた。あの夜ここを飛び出したことを覚えていないのも、夢か現か分からん状態だったせいかもしれんし、そもそも人なんぞいうものは酔っ払っただけでも前の晩のことをすっかり忘れるではないか。ああそうか、今更ながら腑に落ちた)
「……『別で』、如何しましたか? 殿」
「ああ、いや」
 どうやら重実も数秒考え込んでいたらしい。
 忠三郎に促されて我に返った重実は、雪に手荷物を預ける紘子や雪との再会を喜ぶイネを眺めながら、
「独りにすると、『鬼』が悪さをするんだよ。『鬼』は隙あらばあいつの心を抉って、塩を擦り込むようなことをする。ここに来たからには、もうあいつだけに堪えさせるようなことはしたくないのさ」
 と、静かに告げた。
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