第69話 一途過ぎるお殿様・壱

文字数 2,177文字

 季節は移ろい、開け放たれた襖からはからりとした涼しい風が流れ入る。
 今はまだ青々としている庭の椛も、やがて美しい紅に染まるのだろう。

 松代城代家老の離れで、紘子は重実からの文を読んでいた。
 両足こそ不自由なものの他の傷は随分と癒え、彼女は日中の殆どの時間を起き上がって過ごすようになっていた。
「姫様、お殿様は何と?」
 紘子の目が文の字を辿り終えた頃、傍に控えていたイネが問い掛ける。
「吉住は死罪となり、重実様が最期を見届けて下さったそうだ」
「左様でございますか」
 紘子は庭の木々を眺めながら、
「これで、父上と母上も少しは浮かばれるだろうか……」
 と漏らす。
「ええ、ええ、きっとご無念も晴れておいででしょう……」
 イネはそう返しながらいつものようにおいおいと泣き出した。
「またすぐに泣く……イネは昔とちっとも変わらぬな」
「そのような事はございません、白髪も皺も増えてございます」
「ふふっ」
 他愛ない会話に微笑む紘子を見て、イネは余計に涙を零す。
「姫様がこんなにもにこやかにお過ごしになられる様を見るのはいつぶりでございましょうか。八束のお家にいらした頃以来ではございませぬか……っ。ああ、何と喜ばしいっ」

 紘子がイネの相変わらずの様子に苦笑していると、開けられた襖の陰から
「八束様、お目通りを願う者が来ておりますが……」
 と女中が遠慮がちに声を掛けた。
「よもや、峰澤のお殿様がお迎えに!?」
「いいえ、重実様からの文には『寒くなる前に迎えに行く』としか……」
「では一体……?」
 顔を見合わせる二人に、女中が告げる。
「佐原屋と申す小間物屋だそうでございます。何でも、清平様ご依頼の品を納めに来たと……」
「……重実様が?」
「はて、お殿様が松代領内の小間物屋で何をお買い求めになったのでしょう?」
 紘子とイネは再び顔を見合わせた。
「恐らく江戸に向かわれる前であろうが……思いの外松代に長居する事になり不便があったのやもしれない」
 紘子の呟きにイネも頷く。
「確かに、こちらにいらした時のお殿様は着の身着のままのご様子でしたし、お過ごしの間にあれやこれやとご要り用になっても不思議ではございますまい。しかしながら品が届く前に田邉様から文が届き、やむなく発たれたのやもしれませぬ」
「ならば、尚のこと私たちがしかとお預かりしておかねばならぬな」
 紘子の言葉を受けたイネは、
「承知いたしました。佐原屋殿をこちらにお通し下さりませ」
 と女中に声を掛けた。

 女中が佐原屋を取り次いでいる間にイネはあたふたと支度を整える。
「ささっ、姫様、とりあえずお女中さんから羽織を借りてまいりました故、袖をお通し下さい。ややっ、御髪を隠さねば……ええいっ、これで凌ぎましょうぞ!」
「手拭いで隠すと!? イネ、それはあまりに……」
「何を仰せにございますか! 今から頭巾を探す暇などございませぬよ!」
「それはそうだが……」
(ああ……背に腹は代えられないか……)
 ようやく諦めた紘子の頭をイネが染め抜きの手拭いで覆い、寝間着の上から羽織りを着せ、辛うじて人目に触れられる様にしたところで部屋の外から声がした。
「八束様、佐原屋にございます」
「……どうぞ、お入り下さい」
 紘子はどこか疲れた調子で佐原屋を招くが、入室して頭を下げる佐原屋の佇まいを見て気持ちを切り替え、背筋を伸ばす。
「お待たせいたしました、八束でございます。まずはこのような格好で相対しますご無礼、ご容赦を。佐原屋殿、どうぞ頭をお上げ下さいませ」
 佐原屋が顔を上げると、上座の紘子は傷付いた足を横に投げ出し右腕で上体を支えるような格好をしていた。
 とても行儀の良い座り方とは言えないのだが、紘子からは不思議と気品が感じられ、凛として見える。

(大変なお怪我を負われ斯様なお姿というのに、何ともご立派。これは名のあるお武家様の御家で幼い頃より躾けられてこそ醸せるもの。成程、清平様がご執心されるのも分かる)
 佐原屋は柔和な笑みを浮かべた。
「無礼などございませぬ。当方こそ、ご無理を申し心苦しい限り。されど、あの八束様がここまでお元気になられて当方も嬉しゅうございます」
「『あの』とは……?」
 首を傾げる紘子の横で、イネは「あっ」と瞠目する。
「佐原屋殿、其方あのお白洲にいらした小間物屋ではございませぬか!」
「白洲に?」
 紘子はイネと佐原屋を交互に見た。
「ええ、鬼頭様の寝所に落ちていた簪の買い主が吉住であったと白洲で証を立てて下さった小間物屋でございますよ」
 イネにそう告げられた紘子は恐縮し佐原屋に頭を下げる。
「申し訳ございません、実は白洲での事はろくに覚えておらず……佐原屋殿、濡れ衣を晴らして下さった礼を改めて申し上げます。誠にありがとうございました」
「勿体無きお言葉。無理もない事にございます、あれは素人目に見ましても大層痛ましい様でございました故。むしろよくぞご快癒され、喜ばしい限り」
 佐原屋はにこやかに返しながらふと紘子の胸元に目をやった。
 寝間着の袷に差し込まれた櫛を見て、佐原屋は笑みを深める。
「恐れながら、その櫛もお気に召して頂けているようで何よりにございます」
「櫛、ですか?」
 紘子は袷から櫛を抜く。
「はい、その櫛は過日清平様が当方でお買い求めになられたもの。あの時の清平様は大層熱心に櫛を選ばれておいででした……」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み