第10話 その手を引くのは・弐

文字数 3,804文字

 夕刻。
 紘子は重い体を引きずるようにして長屋の外に出る。
 ちょうど、重之介が子供たちを家に帰し、紘子の部屋に戻ってくるところだった。
 西日に半身を照らされる重之介に、そこはかとなく色気を感じてしまうのは、気怠い体のせいだろうか。
 紘子は数瞬、重之介を黙って見つめた。
 彼女の視線に気付いた重之介が、呆れ顔で駆け寄ってくる。
「何だよ、中で休んでりゃいいのに。もう子供らは帰した。お前も今日はゆっくりしとけ」
 すると、紘子はぺこりと頭を下げ、
「今日はありがとうございました。ですが、これから勤めがございますので……」
 と、俯きがちに重之介の横をすり抜けた。
「はぁ!?馬鹿を言うんじゃない!」
 重之介は咄嗟に紘子の手を取り引き止める。
 あづまで初めて会った、あの時のように。
 だが、あの時のそれより、重之介の握力が紘子には強く感じられた。
 重之介は紘子の顔を覗き込む。
「そんな焦点の合ってない目をしてて仕事に行くとか……どうかしてるぞ」
「そ、そうですか……?」
 手を引っ張ったり、顔を覗き込んだり……と、無遠慮に距離を詰めてくる重之介に紘子は心を掻き乱され、間抜けな一言を返すのが精一杯だった。
「『そうですか』って、自覚ないのか?」
 紘子の答えは、重之介の無遠慮に拍車を掛ける。
 彼は紘子の手を放すや否や、彼女の額と首の後ろに手の平を当てた。
「ほら、やっぱり熱がある」
 重之介の手をひんやりと感じる程、紘子は自分がひどく熱っぽい事をようやく自覚するが、それと同時にどんどん頬が上気していくのも分かる。
 紘子は混乱したまま、一歩二歩重之介から後退った。
「ですが、勝手に休んでしまったら、暇を出されてしまうかもしれません」
「だからって、お前……」
 反論しようとした重之介だったが、ふと「妙案」を思いつく。
「そうだ、どうしても顔出して許しをもらわなきゃいけないなら、俺が付き合ってやるよ。どうせ暇だし。勤め先は何処だ?この時分から行くと言ったらあづまじゃないだろう?」
「はい……夕刻からの勤めは木戸屋さんで下働きを……」
「木戸屋なら俺も知ってる。よし、行こう」
「ですが……」
「ですがですがって、俺の名は『ですが』じゃない。そんなふらふらした足取りのおなごを一人で歩かせられるか。それに、『証人』がいればお前の病も疑われず、すんなり休ませてもらえる。ははっ、そうとなれば話は早い、ほら」
 重之介は悪戯っぽい笑みを浮かべながらまたも紘子の手を引っ張った。
「あのっ、重之介様、この手は……」
 熱に浮かされた目で手を放すよう訴える紘子は、どうにも色っぽい。
(参ったな。俺とした事が、不謹慎にも程があるだろ……)
 そう己を律しつつも、重之介は手を放さない。
「そんなんじゃ、木戸屋に着くまで何度転ぶか分からない。危なくなった時に引っ張り上げられるように繋いどくんだよ」
「……」
 重之介がそこまで言うと、紘子は黙り込んでしまった。
(今に始まった事ではないけれど、何て強引なお方だろう。けれど……)
「……温かい」
 泉町に出掛けたあの時と同じ台詞が、紘子の口から零れる。
「お前の手は冷たいな」
 今度は聞こえたのだろう、重之介はやりきれなさそうな顔で前を向いたまま、ぽつりと返した。
 体は熱っぽいのに、指先はひどく冷たい。
 紘子の体調が悪い事はそれだけで十分分かる。
「全く……いつからこの調子だった?」
「……一昨日辺り、でしょうか」
(土手で風を浴び過ぎたか?団子なんぞに付き合わせて、悪い事をしたな……)
 重之介の中では益々やりきれなさが募ったが、何故か紘子の心は次第に困惑が麻痺して心地良さが入り込むようになっていた。
(重之介様が傍にいらっしゃる事が、こんなに心安らぐ事だなんて……)
 心の領域を侵され、距離を詰められ、振り回されているというのに、「安らぎ」を感じる。
 まるで、心のどこかで「そうしてほしい」と願っていたかのように……。
 
 重之介の口添えもあって、紘子は体調が戻るまでの間休暇をもらえる事となった。
 木戸屋からの帰り道、いよいよ息遣いの荒くなりだした紘子の前に重之介が背を下ろす。
「その足じゃ帰るまでに夜が明けるぞ。ほら、おぶされ」
「いいえ……そこまで、して、頂くわけに、は……」
 紘子は息が乱れてまともに言葉も返せない。
「嫌だってんなら、横抱きにするぞ。そっちの方が余程恥ずかしいと思うがな」
「……っ」
 紘子は虚ろな目をしながらも明らかに当惑していた。
 こんな時だと言うのに、その様子が重之介には妙に可愛らしく見える。
「ほら」
 どこかからかい調子で促され、紘子は観念したのかゆっくりと重之介の背に身を預けた。
 悪寒を感じる体には、重之介の背中がより温かく感じられる。
(これは、夢だろうか……こんなにも安らいで、これが「幸い」というものなのだろうか……)

 生きた心地のしない日々を、どれ程過ごしてきただろうか?
 何故死を選ばなかったのかが、今となっては不思議な程だ。
 死ねば両親が悲しむ、付き従ってきた者たちが路頭に迷う、そんな責任感が己を辛うじて生かしていたのだろう。
 そこに「幸い」はあったか……いや、「地獄」に幸いなどあろう筈もない。
 何故己が「地獄」に堕とされたのか……誰が突き落としたのか……何故己でなければならなかったのか……そんな事は分からない。

 紘子は、熱に浮かされまとまらない思考の中にいながら、必死で重之介の温もりにしがみつく。
(どうか、夢なら覚めないで……)
 
 ゆっくりと歩きながら、重之介は口を開く。
「ひろ、せっかく調子が戻るまでって約束で暇をもらったんだ、熱が下がったら美味い物を食いに連れてってやる。これでもあちこち歩き回ってるからな、安くて美味い店はそれなりに知ってるんだ」
「そんな事して、罰が当たらないでしょうか……」
(怖い……いい思いをした矢先に地獄に連れ戻されそうで。今が……今が幸いであればある程、怖くなる……)
 何故だろうか、紘子の声色はやけに寂しげだ。
(罰が当たる、か……)
 紘子の一言は重之介の胸を締めつけた。
(こいつがそこまで己を責める事とは、一体何なんだ……?)
「体の弱った人間が美味い物食って滋養を付ける、これの何が悪い?親から貰った体を酷使して日々の営みに楽しみひとつ見出せない事の方が、俺には余程罰当たりに思えるがな……って、すまん、お前を責めるつもりはない。ただ……俺には分からないんだ、何故お前がそこまで己を追い込むのか。これも、お前の『我が儘』だと言うのか?」
「……分かりません」
 賢い紘子に似合わぬ曖昧で的外れな答えが、重之介の胸を穿つ。
(それは、お前が本当は望んじゃいないって事だよな……?お前だって、心の底じゃ思うままに自由に生きてみたいんだよな……?)
 「お前に何があった」と喉のすぐ手前まで出てくる問いを、重之介はぐっと呑み込んだ。
 その問いが余計に紘子を追い詰めるような気がして、重之介にはどうしても口に出来なかった。
 そんな彼には、
「……ひろは働き過ぎだ。とにかく、熱が下がってすぐに仕事に行けばまたぶり返すのは目に見えてる。滋養と体力を付けろ。でないと、結局木戸屋にも迷惑を掛ける事になるぞ」
 と諭すのが精一杯だ。
 すると、
「……はい」
 と、紘子は意外にもあっさり返事をする。
「ははっ、何だよ、『ですが』も言わないなんてやけに素直だな……って、ひろ?」
(……重之介様、今私を呼んだ?もう、分からない……瞼が、重い……もう少し、もう少しだけこのまま温もりの中にいさせて……)
 急にずっしりと背中が重くなった気がして、重之介はちらりと横を見た。
「……」
 紘子は完全に気の抜けた顔を晒し、寝入っている。
(ったく、この顔だけ見てりゃその辺のおなごと変わらないな。普段のこいつと比べたらまるで別人だ。それだけ、日頃張り詰めて生きてるって事か……)

 黄昏時、薄暮に混じり重之介の隣に人影が一つ並んだ。
 重之介は人影の方を向かないまま話しかける。
「可笑しいか?」
「いいえ。非常に貴方様らしいかと」
 人影が静かに返すと、重之介は困ったように声に笑いを含ませた。
「はは、そう見えるかもしれないな。だが……」
 重之介の声色が変わる。
「おなご一人にここまで心を掻き乱されているのは、生まれて初めてだ」
「それは、惚れたという事ですか?」
「さあな。興味はあるが、俺はまだこいつの事をろくに知らない。たぶん、惚れるとしたらもっと先の話だ。今はまぁ、『そんな気がする』ってくらいだろうな。だが……俺に理性ってもんがなかったら、たぶんこのままこいつを連れ帰る」
「それはまた……分かってらっしゃるでしょうが、わきまえて下さいよ」
 柔らかな口調ながらも、人影の言葉は重之介の胸にちくりと刺さった。
「ああ……分かってるさ。だが、どうにもこいつを知りたくて仕方がないのも事実だ。結論を出すのは、知ってからにさせてくれ」
「まぁ、仕方ありませんね……では」
 人影はそう言い残しすっと離れていく。
 重之介の背中では、紘子が規則正しい寝息を立てていた。
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