第59話 先の見えぬ峠・参

文字数 3,678文字

 「佐原屋」に入って一刻ほど後、重実は懐にしまった物に時折愛おしげに触れながら奉行所に戻る。
 門をくぐり庭を抜けようとすると、親房が旅装束で外に出てくるところだった。
「田邉殿、じきに日が暮れましょうに、よもや今から江戸へお戻りに?」
 重実が駆け寄り問うと、親房は真剣な面持ちで頷く。
「ああ、伊豆守様から文が届いてな……少々江戸の浪人共がきな臭い動きをしていると。先の上様がお隠れになり、家綱様が将軍となられてからまだ間もない。不穏な動きがあるならば早くに手を打たねば。故に由井と関わりを持っている吉住をすぐにでも江戸に送り、調べなければならなくなった。幸い、松代の城代家老殿が人足を手配してくれてな、こうして出立出来る事になったのだ」
「左様でございますか……田邉殿、俺は、その……」
 言いにくそうにしている重実の心情を慮り、親房は微笑を浮かべた。
「分かっている。せめて幹子殿が目を覚ますまではここにいれば良い。松代の城代家老と奉行には私から話を付けておいた」
「……かたじけのうございます」
「礼には及ばん。それと……」
 親房はやや声を落とす。
「幹子殿だが、快癒された折には一度佐野の父に目通りに来てはもらえないだろうか?」
「……瀬見守様にですか?」
 重実は僅かに首を傾げた。
(田邉殿のお父上が、何故?)
 すると、今度は親房の方が何やら言いにくそうな顔を見せる。
「私もここに来る直前に告げられたのだが……父上は、かつて鬼頭と八束の縁組に関わっていたらしい」
「縁組に……」
 重実は思わず眉根を寄せた。

 この時代、大名家の婚姻となると幕府の許しが欠かせなかった。
 そのため、許しを得るために有力大名に口添えを頼んだり仲を取り持ってもらったりする事も多々あり、逆に幕府側が大名統制のために縁組に介入する場合もあった。

(ひろの婚姻に瀬見守様が……田邉殿には悪いが、今更ひろに会って瀬見守様はどうなさるおつもりなのか。あいつは……ひろは鬼頭家に嫁がされたばっかりに死ぬような目に遭って、親まで殺されてる。縁組に関わったとなると、あいつにとって瀬見守様は仇同然になる。そんな相手になど会いたくもないだろう……)
「……」
 黙り込む重実の心の内は、親房にも理解出来る。
 今日、瀕死の状態までに傷付けられた紘子の姿を目の当たりにし、彼はつくづく思っていた。
 己の父が鬼頭家と八束家を結びつけようなどとしなければ、今頃紘子は酷い目にも遭わずどこぞの入り婿と平穏に暮らせていたかもしれない。
 濡れ衣を着せられる事も、あんなに痛めつけられる事もなかっただろう……と。
 だが、親房は父を信じている。
 父のかつての行い、そこに決して悪意はなかった筈だと。
「父は仲立ちの任の途中でお役目を離れた故に後の事は知らず、藩主殺しの一件も八束の家が取り潰された事も人伝に聞いたそうだ。だが、父は悔いているようでな……叶うならば生きているうちに詫びたいと」
「……」
(田邉殿の物言い……瀬見守様は、もう長くないのか。ひろにとっては因縁の相手でも、田邉殿にとってはただ一人の父……生きているうちに願いを叶えてやりたいだろうな)
 既に両親を看取った重実には、親房の心境が何となく分かった。
 とはいえ、会うかどうかは重実が決める事ではない。
「承知しました。ですが、もしもひろが目通りに伺う事を拒むようでしたら、俺はそれ以上の無理強いはしたくありません」
「構わん、幹子殿の心情を思えばもっともの事。ただ、父が心から詫びたいと思っているのは真だ、それだけは分かってくれ」
「勿論です」
 重実は深く頷く。

 ちょうどその時、奉行所の裏手からお縄になった吉住が役人と共に出てきた。
(吉住!)
 縛に着いているというのに、吉住の酷薄そうな面は変わらない。
 親房の背後を役人に引かれながら通り過ぎる吉住の横顔を見かけた途端、重実は如何ともし難い憤怒の感情が沸き起こるのを感じ、無意識に拳を握り締める。
 そして、彼の双眸はあからさまな殺気を発し、吉住に向けられた。
「重実……?」
 親房は重実のただならぬ様子に、殺気立った視線の先を振り向く。
(吉住か……! 重実の奴、よもや斬り掛かりはせんだろうな!?)
 重実の性格を知る親房に緊張が走った。
 好いた女の仇敵とはいえ、幕府の許しなく私怨で手を出せば重実は罰せられる。
 いわゆる「喧嘩両成敗」だ。
(重実、いくら相手が罪人であろうと縛られた者に手を出せばお前の方が重い責めを負わされるぞ! 減封で済めば御の字、下手をすれば峰澤は取り潰しだ……頼む、(こら)えてくれ……! 本気になったお前を止めるだけの腕前は私にはない。そうなれば、私はお前に命懸けでしがみつくより他ない……っ)
 親房は祈るような面持ちで重実を見つめた。
「……」
 無言のまま吉住を睨む重実の拳が小刻みに震え、やがて、ぽたりと血の雫が落ちる。
 閉じた口の中で、ぎり……と重実の奥歯の軋む音がした頃には、吉住は庭を出てその姿も見えなくなった。
「重実……」
 親房は懐から手拭いを出し、重実の手に握らせる。
 血の滲む手拭いに目を落としながら、親房は
「……よく堪えたな」
 とだけ囁いた。
 重実は俯きがちに
「……田邉殿、江戸での裁きには俺も立ち会わせて下さい。何故ひろが濡れ衣を着せられねばならなかったのか、ここではまだ何も明らかにされてはおりません故」
 と返す。
「分かった。先に謀反の件について調べ、朝永藩主殺しの件は後に回すよう目付に頼んでおこう。今暫くは、幹子殿の傍にいてやるといい。では、私はそろそろ行くとする」
 親房はそう答えると、重実の肩をぽんと叩き役人たちの後を追った。
 重実は親房の背中に頭を下げる。
「道中、お気を付けて」

 重実が紘子の寝所に戻ると、イネがにこやかな顔で
「おかえりなさいませ」
 と挨拶し、立ち上がる。
「姫様はぐっすり眠っておいでです。医者様の手当てで少々楽になられたのやもしれません。お殿様、只今こちらに夕餉をご用意してお持ちいたしますので、暫しお待ち下さいませ」
 イネはそう言い残し廊下に出た……が。
「ふふ、若いお二人のお邪魔になってはいけない、いけない」
(おい……丸聞こえだぞ、イネ)
 イネは独り言のつもりだったのだろうが、その声は廊下を進む足音と共にしっかり重実の耳に届く。
「忠三郎とは違った厄介さを感じるな……なぁひろ、そう思わないか?」
 重実は苦笑しながら紘子の傍に胡座をかいた。
 死んだように眠る紘子の髪を指先で梳く重実の顔からは苦笑が消え、彼は何かを堪えるかのように目を細める。
吉住(あいつ)は、お前の心を最も深く抉るやり口を選んだ。この世に、こうも非道な男がいるとはな……」

 白洲での裁きの後、松代の役人が奉行所の牢を検めた。
 石牢の床に乾いてこびりついた血溜まりと、結び目そのままにぼとりと落ちている髪の毛、そして落ちた髪に挿された血塗れの櫛に、さすがの役人たちも血の気が引いたと言う。
 
 あづまで櫛をくれた時、紘子がどれ程の幸いを感じていたのか……彼女の口から過去を聞いている今の重実には察して余りある程だった。
 吉住は、それを奪い過去に立ち戻らせる事で紘子を追い詰めようとした。
 切り落とされた髪の毛を見て、紘子はどんな気持ちになったのだろうか。
 どれ程恐怖と絶望に打ちのめされた事か。
 それでも最後の最後まで足掻き、どんなに心をすり減らした事か。
「……案ずるな、ちゃんと伸びる。美しく、美しく伸びる。生きてさえいれば、いくらだって伸びる。こんな頭にされた事など忘れそうになる程な。此度の事など思い出す暇が生涯ない程に、俺がお前を愛でてみせる」
 重実は紘子の布団をそっと捲る。
 そして、己の懐から一本の櫛を取り出すと、紘子の襦袢の袷に差し込み、再び布団を戻した。
「目を覚ましたら驚けよ?」
 そう囁いて微笑んだが、その笑みはまたすぐに消える。
 それから重実は暫く無言で何度も何度も紘子の頭を指先で優しく撫でた後、ふとその手を止め掌を見つめた。
 吉住を見かけ握り締めた掌には、己の爪が刺さり血を流した痕がくっきりと残っている。
 重実はその手で紘子の頬を撫でた。
「あのな、ひろ……己の命を懸けてでも譲れぬ一分(いちぶん)ってのが、武士にはある。あの従重にだってある。あいつは、お前のためならきっと己の命も容易く投げ出すだろうな。俺も……あの時そうすべきだったのかもしれない、武士ならば。出来る事ならそうしたかった、これでも俺もひとかどの武士だからな。だが……」
 重実の声は小刻みに震え始める。
「俺は……俺は、あの男の胸ぐらを掴む事さえ出来なかった……っ。お前が、お前がっ、こんなになってまで守ろうとしたものを失ってしまうと思ったら、俺は……何も出来なかった!」
 流れる涙をそのままにして、重実は項垂れた。
「お前の痛みも、苦しみも、何一つ晴らしてやれなかった……何一つ、あいつに味わわせてやれなかった……俺は、口惜しくてしょうがない……」
 紘子が何も返さずただ眠ってくれている事が、今の重実には救いだった……。
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