第43話 燻り出す火

文字数 2,025文字

 巳ノ刻(午前10時頃)。
 従重は風呂敷包みを抱えて東町長屋を訪れた。
(城の蔵にまだこんな物が残っていたとはな……)
 従重が歩く度に、風呂敷の中からはカタカタと音がする。
(俺の使い古しの書道具とはいえ、子供の手習いには丁度良かろう)
 東町長屋の一角には数人の住人が集まり何やらひそひそと話していた。
 何やらただならぬ気配に、従重は声を掛ける。
「おい、如何した」
 すると、住人の間から見知った顔が一つ二つ現れ、従重を見上げた。
 紘子に読み書きを習っている子供だ。
「あ、おさむらいさま」
 子供は従重と紘子の長屋を交互に見ながら答える。
「ひろこがいないのです。きょうもてならいのやくそくをしていたのに」
「……は?」
 手習いの予定を組んでいる日に紘子が長屋を空ける事など、従重が知る限りではこれまで一度もなかった。
 それは長屋の住人たちも同様らしく、皆紘子が忽然と姿を消した事に首を傾げている。
 従重は紘子の長屋の戸を開けた。
 狭い室内は片付いているが、いつもと何も変わらない。
 少ない着物や身の回りの品を持ち出したような形跡もない。
「あれが何も告げずにどこぞへ行くなどあり得ん。何か火急の用事でもあったのだろう。俺が捜してくる」
 従重は子供に風呂敷包みを押し付けると、長屋の扉を抜け紘子を捜しに外へ出たが……。

「これだけ捜しても見当たらんとは、あやつは一体何処に消えたのだ……」
 申ノ刻(午後4時頃)。 
 城の堀に掛かる橋の欄干にもたれ、従重は溜め息を吐く。
 彼は、紘子が内職を請け負い頻繁に出入りしているという商家だけでなく、まさかとは思ったが木戸屋にも顔を出して紘子の消息を訊ねた。
 しかし、皆知らぬと言うばかりだった。
 八方塞がりの従重が悩ましげに水面を見下ろしていると、
「おや、お旗本様ではございませんか」
 と聞き覚えのある声がして、彼はふと顔を上げる。
 従重に声を掛けたのは大久保だった。
「大久保殿」
 従重は軽く会釈をする。
 大久保は従重に近付くと、上目遣いに問い掛けた。
「お顔の色が優れませんが、如何されましたか?」
「……知り合いが姿を消してしまいまして」
 紘子の存在をぼかして当たり障りなく答えた従重に、大久保は遠慮がちながらも核心を突いてくる。
「そのお知り合いとは、もしやおなごではございませんか?」
 従重の目が見開かれた。
 その様子に、大久保が続ける。
「やはりそうですか……実は、聞けばここのところ江戸や近隣諸藩でおなごの拐かしが増えているそうでして」
「……何故ですか?」
 訊き返す従重に、大久保の目が細められた。
「浪人でございますよ。主家を取り潰されあてもなく溢れ返った浪人が、食い詰めておなごを拐かし、人買いに売るのです。売られたおなごは殆どが行方知れずになるそうです。大方、どこぞの置屋に遊女として売られているのでしょう」
 紘子が柵越しに力無く男を誘う様を想像し、従重は唇を震わせる。
「そんな、馬鹿な……」
「お旗本様、これが今の日ノ本の有り様なのでございます。ですが、まだ一縷の望みはございますよ……」
 大久保が口にした「一縷の望み」という言葉に、従重は思わず一歩距離を詰めた。
「大久保殿、『望み』とは?」
 従重の「心の隙」に、大久保はするりと入り込む。
「先日、私の始めようとしている商いについてお話ししたかと存じますが……実はその商いについて色々と指南して下さるお方がおりまして、そのお方は大変顔が広く、各地の浪人事情についてもお詳しいのです。浪人たちにも顔が利きますし、お知り合いの行方の手掛かりを掴めるやもしれません。蛇の道は蛇と申します、お旗本様さえよろしければ、すぐにでもそのお方をご紹介して差し上げますが」
(紘子には恐らく頼れる身内もいない筈だ。このまま連れ去られれば、もはや行方を掴む事は出来ん。ただの町娘に過ぎん紘子ひとりに藩の者を動かすわけにもいかぬとなれば、少々胡散臭い者であっても頼らねばなるまい。それに、元を正せば……)
「お旗本様、全ては浪人をここまで膨れ上がらせたご公儀の咎にございますよ。ご公儀が安易に改易だの減封だのとなさるから浪人が増え、お旗本様の知り合いにまで災難が及んでおられるのです。私が頼みとしているそのお方は、この浪人たちを救済しようと立ち上がられたお方、必ずやお旗本様のお力になって下さりましょう」
 不意に心の奥底から浮かび上がってきた恨み言は、こうして大久保によって言葉に化された。
(ご公儀はもちろん、何かとご公儀に忠義を見せる兄上もあてにはならん。紘子は、俺が必ず見つけ出す)
 従重は大久保に頭を下げる。
「大久保殿、取り急ぎそのお方に目通り願いたい」
「ええ、喜んで」
(ようやく着け木が火種によって燻り出したか)
 大久保は内心でほくそ笑みながら、従重を連れ東町を出た。
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