第12話 馬上の思惑

文字数 1,975文字

 髪を結い、ふぅと息を吐いたタイミングで、誰かが障子戸を叩いた。
「ひろ、起きてるか?」
(重之介様!?)
 障子戸を叩いたのが重之介だと分かると、紘子は慌てて返す。
「はっ、はい」
 紘子の返事を聞き、重之介は揚々と障子戸を開けた。
「お早う、ひろ。出掛けるぞ」
「出掛けるって……一体どちらにですか?」
 重之介は半ば呆れた面持ちで告げる。
「何だよ、昨日約束したじゃないか。滋養を付けるために美味い物を食いに行くって。どうやらその様子だと熱も下がったようだし、なら早速行くに限るだろう?」
 重之介はまるで当然と言わんばかりに紘子の手を引いた。
「ほら、早く」
(そんな、つい今し方重之介様を巻き込まないようにしたいと思ったばかりなのに……)
 なかなか腰を上げない紘子の手を、重之介は数度軽く引っ張る。
 それは何やら、遊びをせがむ子供のようなあどけなさを滲ませていた。
(ずるいお方……このようにされては私が断りづらいとまるでご存知かのようだ……)
「分かりました」
 実のところその心の奥底はふわふわと舞い上がっていたものの、紘子はそれに気付かぬふりをして、仕方なさそうに眉を下げ立ち上がる。
 
 長屋と通りを仕切る扉を開けて表に出ると、馬が一頭繋がれていた。
 重之介はその馬に跨がる。
「なっ……重之介様、これは何ですか……?」
 長屋の前に馬とは、目立つ事この上ない。
 紘子は慌てふためいた。
 だが、重之介はいたって平静だ。
「何って、馬以外の何物でもないだろう。わけは道中で話す。さあ」
 重之介は馬上から紘子の腕をぐいっと引き上げる。
 重之介の前に座らされた紘子の耳元で、彼は囁いた。
「ひろ、馬乗りの心得は?」
「あの、その……」
 重之介の声と吐息が耳朶をくすぐり、紘子はつい声を上ずらせる。
 幼少の頃、馬にはよく乗せられていた。
 何かにつけて、父が鷹狩りだ散歩だと紘子を連れ回していたからだ。
 やがて一人で馬を扱えるようになると、父は紘子のために馬を一頭用意もした。
 齢十二、三の頃には、父と馬を並べて歩くようにもなっていたが……。
(「心得はない」と、そう一言偽れば良いだけだというのに……)
 重之介と出会ってからまだそう経っていない筈なのだが、紘子にはもう彼に嘘を吐く事が出来なくなっていた。
(否定しないという事は……ひろの奴、恐らく馬の扱いを知っているな)
 重之介はすぐにそう察したものの、
(まぁいい、これもこいつを知るいい機会だ。それに……こいつの事だけは、不思議と囲っていたくなる)
 などと考えながら紘子の脇腹に腕を回す。
(し、重之介様……?)
 突如縮められた距離に紘子の体は硬直したが、重之介の方は内心妙な安堵を感じていた。
 紘子が落馬しないようにと回した腕の筈なのに、これで紘子がずっと己の傍にいてくれるような感覚がして。
(おかしな話だ。元々は学のある町娘が物珍しかっただけだったのに、今はこいつを独り占めしたくて仕方がない。俺はいつからこいつの「特別」になりたいなんぞ思うようになったのやら)
 紘子の耳元で、くすっと笑う声がした。
「……とりあえず、案ずるな。俺に背中を預けていろ」
「は、はぁ……」
 遠慮がちにそろそろともたれようとする紘子を、重之介はぐっと己に引き寄せる。
 そして、彼女の体をしっかりと抱き寄せ、軽く馬の腹を蹴った。

 馬を軽快に歩かせながら、重之介は紘子を背後からそれとなく観察する。
(思った通りだな。ひろには馬乗りの心得がある)
 無意識なのだろうが、紘子の脚にはしっかりと力が入っており、脇も程良く締められ、背筋だって伸びている。
 馬上で体勢を保つ術を知っていなければ出来ない事だ。
(馬乗りを覚えるのは武家の中でもそれなりの身分の者だ。それをひた隠しにするという事は、単なる取り潰しの類で身分を失ったという事ではなさそうだな。何か秘め事があるとしか思えないが……)
 紘子を知りたい。
 彼女が何を抱えてこんな息苦しい生き方をしているのか。
 だが、ただでさえ口の堅そうな彼女が今の間柄でそれを自分に素直に話すとは重之介には思えない。
(武士たる者、おなごの秘め事を暴くなんてみっともないよな。そういうのは、本人から打ち明けてくるのを待つものだ。そんな事は分かってる。分かっちゃいるが……)
 回した腕に触れる感触。
 首元を掠める彼女の髪。
 微かに聞こえる息遣い。
 紘子の存在を近くに感じる度に、重之介は否が応でもただの男に成り下がった己の内面を自覚せざるを得ない。
(……許せ、ひろ)
 重之介は着物の内側に忍ばせた文を意識しながら、心の中で紘子に詫びた。
(俺は、お前が心底幸せそうに笑う様をこの目で見てみたくなったんだ)
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