第49話 一縷の望み・弐

文字数 3,037文字

「従重様はその軍学者をご存知なのですか?」
 忠三郎から怪訝そうな視線を向けられ、従重は
「な、名前くらいは聞いたことがある……」
 とその場を凌ぐ。
(ご公儀に仇為さんとする者と面識があるなど、今ここで北脇に知られるわけにはいかん……っ)
 おまけに、想像だにしなかった名が出てきた事に狼狽し、離縁状の事が頭からすっ飛んでしまった。
「吉住は、幾人かの浪人を従え江戸と近隣の諸藩を行き来している様子。江戸で見かけた時は配下の浪人に『大久保様』などと呼ばれておりましたが……偽名で動き回る辺りからして、何か良からぬ事を考えておるのでしょう。某らを捕らえたくば真の名で奉行所なりに助力を願い出た方が何かと都合が良い筈でございますので」
「お、大久保、だと……?」
(まさか、あの大久保が朝永の元家老だというのか……?)
 今しがたどうにかやり過ごしたばかりの従重だったが、紘蓮が告げた駄目押しの事実にいよいよ瞠目し唇を震わせた。

 だが、ここにきて彼の頭は目まぐるしく回転を始める。
(思えば全ての事が滑らかに運び過ぎている……紘子が姿を消し、その直後に大久保が俺を由井正雪に引き会わせ……。紘子と大久保の間に繋がりがあると分かった今なら、それも説明が付く。紘子を拐かしたのは大久保に違いない。あの男ならば、俺と紘子が懇意にしていた事にも気付いていた筈だ。俺が兄上を通じてご公儀に密告するやもしれぬと、奴は察していた。故に、俺が万一そうした手に出ようとした時の人質として紘子を……俺の退き口を塞ごうと、奴は紘子を……!)
「そうか……そういう事かっ! ではこれは……っ!」
「従重様!?」
 従重は唖然とする忠三郎らに懐から懐剣と書状を出して見せた。
「紘蓮とやら、これを見よ! これが、お主が鬼頭幹子とやらに進言し、鬼頭貞臣に書かせたという離縁状に相違ないか!?」
 紘蓮は恐る恐る書状を開き、その手を震わせる。
「そ……相違ございません! まさに、まさにこの離縁状こそ、幹子様が御夫君より拝したものにございます!」

「従重様、そのような物を一体どちらで……?」
 忠三郎も動揺を隠せない。
 彼は、重実が親房の元に向かった翌日には命じられたままに「あづま」の千代に頼んで紘子の長屋を検めさせていた。
 しかし、残されていたのは小さな行李と文机にささやかな生活道具くらいで、離縁状を見つける事が出来ずにいたのだ。
 離縁状が見つからずどうしたものかと内心頭を悩ませていたところにこれだ。
 忠三郎にとってはまさに「青天の霹靂」である。

「斯様な事はどうでも良い! それより包み紙の裏を見よ、紘子の句がある。今の今までその句が何を意味するか皆目分からなんだが……ようやく少々解せた。紘子はこの離縁状――三行半を『三ツ半』とし、懐剣を家紋から『椿』として句の中に潜ませ、これらを長屋の稲荷祠に押し込んでおいたのだろう」
「では、従重様はその祠からそれらを?」
 従重は忠三郎に頷く。
「ああ、全くの偶然だったがな。だが、この句の意が解せぬ。何故このような訳の分からぬ句を詠んだのか……」
「恐れながら……」
 紘子の句を見つめながら、忠三郎が述べ始めた。
「……殿は紘子殿のご事情を全てご存知でおいでです。紘子殿もまた、殿の素性をとうに知っておられます」
「……は? 紘子が、兄上の事を……?」
 呆然とする従重の視線は自然と椿紋の懐剣に落ちる。
「では、この懐剣はよもや……兄上が?」
 忠三郎は静かに頷いた。
「左様にございます。二年前、殿が江戸から交代で帰城される折に足を挫かれまして、通りすがりの尼僧に手当てを頼みました……その礼として殿が尼僧に渡した物にございます」

「その尼僧が、紘子だったというわけか……」
 そう呟いた後、従重はひどく寂しい笑みを浮かべる。
 忠三郎も勝徳も、傲慢な彼のそんな表情はこれまで見た事がなかった。
 だが、驚いている暇もなく従重はその笑みを消し、忠三郎に問う。
「では北脇、お前はこの句の意を何と心得る?」
「その句は……恐らく紘子殿の『願い』かと」
「願い?」
「はい……」
 己の娘よりも若い紘子の覚悟を思ってか、忠三郎は痛みを堪えるような顔で続けた。
「……殿は紘子殿の濡れ衣を晴らそうとしておられましたが、手を打つ前に紘子殿がこのような事になり、それで殿は急ぎ朝永に向かったのでございます。ですが、殿は『正攻法では勝算はない』と仰せでございました。下手を打てば紘子殿の濡れ衣は晴れず、そればかりかこの峰澤にも紘子殿を匿っていたのではないかとあらぬ疑いをかけられましょう。紘子殿もそれを重々ご承知なのだろうと……。故に、三行半を『三ツ半』とし、懐剣を時期外れに咲く『狂い椿』に見立て、それを『食う』……つまり腹に納めよという事でしょう。やもりは『家守』とも書きます故、清平の御家を守れという意にございましょう。そして、下の句は……」
 忠三郎は一度苦しげに唇を噛み締める。
「椿が落ちるは、武家にとって首が落ちる不吉を思わせます。紘子殿は、己を落ちる椿に見立てておいでなのです。そうと察すれば、『知らぬ逢瀬よ』は『知らぬ仰せよ』……知らぬと言えという意ではないでしょうか」
「では、では、紘子は……」

 離縁状と懐剣は、御家を守るためにどうかお納め下さい。
 決して、決して、私との関わりが明るみにならぬよう、秘かにお納めを。
 しかしながら、私が刑に処されこの首が斬られる事になれば、ご公儀は清平の御家に良からぬ嫌疑を掛けるやもしれません。
 罪人を領内で野放しにしていた、若しくは私を罪人と知りながら匿っていたなどと言いがかりをつけられた際には、私の事については知らぬと、そう仰って下さいませ。
 それでも問い質されるようならば、この離縁状をお使い下さい。
 そして、私の潔白を訴えて下さいませ。
 確かに八束幹子という女はこの峰澤にいた、しかしその女は鬼頭貞臣が殺められるよりも前に離縁を申し渡され城を出ている故、真の下手人にあらず……と申し開きをなさって下さいませ。
 この離縁状、私が差し出したところで如何様にも揉み消されましょう。
 ですが、忠勤の大名家が差し出すならばご公儀も無碍にはいたしますまい。
 清平の御家を守るためでございます、どうか、どうか。

「紘子……!」
 紘子の切々とした訴えが耳元に聞こえたような気がして、従重は顔を歪ませた。
「紘子は、覚悟の上で自ら大久保に下ったのか……清平家を守るために……っ!」
 そして、弾かれたように立ち上がり、文机に新しい紙を広げる。
 大久保の正体、由井正雪の陰謀、そして己がそれを知った経緯を一心不乱に書き殴って書状とすると、紘子の離縁状と共に勝徳に差し出した。
「これらを急ぎ兄上に届けよ! 火急だ!!」
「はっ!」
 勝徳は紘蓮と共に素早く下がり、あっという間に城を出ていった。

 忠三郎と二人になった従重は、懐剣に刻まれた椿紋をそっと指でなぞりながら、
「兄上は、既に紘子と出会っていたのだな……二年も前に。初めから、俺が入る余地などなかったという事か……」
 と自嘲的な笑みを浮かべる。
「その上、俺のせいで紘子が……だが、それでも俺は……」
「従重様……」
 兄弟が恋敵同士と察し、忠三郎はただ痛ましげに従重を見つめるしか出来なかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み