第73話 意外な一面・壱

文字数 2,965文字

 離れの縁側にドタドタと足音が響き、紘子のいる部屋の障子がガラリと開く。
「姫様、お越しになりました!」
 息を切らしながら切羽詰まった様子で告げるイネに、紘子は間髪を入れずに
「イネ、一刻で良い……何としても足止めするのだ!」
 と返した。
 紘子は静かに、しかし鬼気迫る雰囲気を醸して手を動かし続けている。
 イネも決死の形相で頷き、来た道を戻った。

 それから一刻ほど経ったであろうか……。
「イネ、もう良い」
 京の噂話、尾張の名産品、紘子の幼少期……イネは客間の上座で胡座をかく重実に次から次へと話題を提供していたが、いよいよネタも尽き始め、それを見抜いた重実が半ば呆れながらそう言い放った。
「そろそろ種を明かせ。何故ひろは顔を見せぬ? よもや具合が……」
「それはのうございます! 姫様は大層お元気で……」
「ならば何故俺を会わせぬ? 部屋に様子を覗きに行って何が悪い? 俺はかれこれふた月はひろの顔を見ていないんだぞ」
「覗かれた時に姫様がお召し替えの最中でしたらば何と致しますか!?」
「それは……っ」
 妻子でもない女子の着替えを覗くなど武士の風上にも置けぬ所業、重実はぐうの音も出ない。

 暫くの間松代で重実と共に過ごしてきたイネは、彼の気位の高さを知っている。
 武士としての誇りや矜恃を重んじる重実ならば低俗卑猥な所業を嫌う……と読んだイネは咄嗟にそう切り返してみたのだが、なかなかに効いたようだ。
 しかし……。
三木助(みきすけ)小平次(こへいじ)、イネ殿に諸国の話をよくよく聞いておけ」
 此度重実は小姓のような若侍を二人、供として連れていた。
 同室の隅で畏まっていた二人は、重実の命を受け
「はっ!」
 と返事をすると、イネの前に進み出て平伏する。
 その間に重実は立ち上がり、客間を出た。
「お殿様っ、お待ち下さりませ!」
「案ずるな、イネ。障子を開ける前に声を掛ける。召し替えの最中に節操なく入ったりはせん」
「されどっ……」
 イネは重実に食い下がろうとするが……。
「ご無礼仕る!」
 若侍のうち、年下と思われる方がイネの着物の裾をはっしと掴めば、
「イネ殿のご高説、是非とも承りとうございます!」
 と年上の方はもっともらしく口説く。
 どうにもならなくなったイネは、今にも泣きそうな顔で長い長い溜め息を吐いた。
(ああ、姫様……どうかご武運を!)

 イネが若侍たちに捕まっていた頃、紘子は黙々と手を動かしていた。
 手の上では萌葱色の織物が波打ち、落とされた視線は波間を走る針先を追う。
 やがて針が波の端に辿り着き、紘子がすっと糸を引いた直後。
「ひろ」
「っ!」
 障子の外から名を呼ぶ声に、紘子は弾かれたように顔を上げ、裁縫道具と萌葱色の布を背後に押しやり隠す。
「重実だ。入るぞ」
(あ……)
 紘子は、そわ……っと胸の中がさざめいた気がした。
(久方ぶりに声を聞いただけで、こうも心が躍るとは……)
「は、はい」
 何だか落ち着かぬ心地のまま、紘子は軽く襟元を正しながら重実に返事する。
(着崩れてはいない筈だ。けれど……)
 この姿を見て、彼はどう思うだろうか。
 精悍な彼に見劣りすまいか。
 彼の顔を真っ直ぐに見て感謝を伝えられるだろうか。
 不安と緊張と、重実の顔を見られる事への期待で、紘子は呼吸すら忘れてじっと障子を見つめた。

 障子が滑らかに走り……。
「久しいな。大事なかった……か?」
 座る紘子に重実は努めていつもの調子で声を掛けるが、その先が続かず紘子から僅かに視線を逸らす。
 崩れもなく着付けた白藍の附下に、頭巾の牡丹が鮮やかに咲いていた。
 そこから覗く愛しい人の瞳に不意に見上げられれば、いつもの冷静さは何処かへ消えてしまう。
(いや、待て、これは……)
 何と愛らしいのか。
(ああ、何てこった……)
 紘子の姿は幾度となく見てきた。
 その顔も、声も、眼差しも、いつだって思い出せる程に心に刻んできた。
 故に、全て「今更」な筈だったというのに。
(思いの外……随分と思いの外当てられる)
 自身の体温がじわりと上がっていくのが分かる。
 それと共に、手が、体が紘子を求める。
(俺は何をしているんだ……っ)
 衝動を抑え、出ない言葉を唇で空回りさせていると、紘子の瞳が揺れた。
「……お陰様で、この通り息災です。重実様、身に余る頂き物を……誠にありがとうございました。ですが、やはり私ではお目汚しでございましょうか……」
 なかなか目を合わせない重実の様子に、紘子の不安は大きくなる。
(重実様のあのご様子……恐らく着物も頭巾も似合っていない私に何と声を掛ければ良いのかお困りなのだろう。私にはどれも勿体ない物だったのだ……重実様も気を落とされているに違いない)
(ああ、もう、俺はこいつに何を言わせているんだ……!)
 俯いた紘子を見た時には、重実は既に彼女の前に座り込んでいた。
「違う……違う、そうではなく……」
 重実はいよいよ抑えきれぬ衝動のままに紘子の頬に触れる。
 頬に差し伸べられた指先の感触に、紘子は思わず身じろぎした。
(重実様、何を……?)
 驚きと戸惑いを宿した瞳で重実の顔を見てみると、彼は何かを堪えているかのように目を細める。
「……すまん、心も、何もかも、お前に持っていかれた心地がしてな」
 吐息混じりにたどたどしく紡がれたその言葉には、不思議な熱がこもっていた。
 微かに頬を赤らめる重実を見て、紘子はようやく彼の心の内を悟る。
(良かった……重実様は喜んで下さっている)
 紘子が安堵に微笑むと、重実の方は今度はそれに当てられた。
(馬鹿、俺を煽るな……もう駄目だ、我慢出来ん)
 重実の体が、無意識のうちにゆっくり、ゆっくり紘子の前に(かし)いでいく。
(こ、このような時は……どうしたら良いのだろうか……)
 妙な緊張を感じ、紘子は浮かべていた微笑を強張らせた。
(どうしようか……着物が着崩れてしまう……いや、着崩れるだけでは済まぬのではないか?)
 紘子の脳内では凄まじい速さで思考が駆け巡る。
(重実様に限ってよもや斯様な時に斯様な場で、その、お、押し倒すなどという事はすまい。そうだ、このお方はそのような邪なお方ではない。けれど……重実様は、私との間に「先」を望んでいらっしゃる。その事は常々……。今重実様がどこまでの「先」をお考えなのかは分からない。分からないが……私はどうなのだ? 私は……)
 己の本心に向き合った途端、紘子は不意に胸の奥が揺さぶられた気がした。
 しかし、その感覚は決して嫌なものではなく……。
 少しずつ近くなる距離が紘子の頬を桜色に染め、長い睫毛を伏せさせる。
 あと一寸で唇が重なりそうになった、その時。
 縁側の床板がぎしっと軋む音がして、重実はもの凄い勢いで紘子から体を離し、がばっと振り向いた。
「あ、殿……ええと……なかなかお戻りにならないので、その……」
 開けっ放しの障子の前で、年下の方の若侍が視線を泳がせながらとりあえずその場に正座する。
「小平次、お前なぁ……!」
 一発殴ってやろうかという怒気が迸ったが、重実は開けたままの障子を見てかぶりを振った。
(……いや、開けっ放しにしていた俺が悪い)
「はあぁ……」
 ひどく疲れたような長く深い溜め息を吐くと、重実は小平次と呼んだ若侍に命じる。
「お前は先にイネと三木助の元に戻っていろ。一刻程したらひろを連れていくから」
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