第38話 幹子の昔語り・肆

文字数 2,934文字

 朝永二万石を預かる鬼頭家は、私の考えなど到底及ばない常軌を逸したお家だった。
 余所者を嫌い冷遇するなどは世によくある話で、その程度なら私も理解は出来る。
 けれど、鬼頭家は明らかにおかしかった。
 如何に酒狂いで支離滅裂な事を言おうと藩主の言は絶対、酔った上での戯言さえも家臣は愚かに従った。
 その筆頭が家老の吉住是直だった。
 吉住が旦那様を傀儡として藩の実権を握っていた事には、嫁いで間もない頃から私も気付いていた。
 彼はひどく頭の回る男だった。
 旦那様の妄言ひとつを言葉巧みに歪曲し、さも筋の通った事のように家臣たちに申し下す、そんな男だった。
 それだけではない。
 旦那様に毎晩酒を与えては悪酔いさせ、時には気に入らない家臣の陰口を旦那様に吹き込んでいた。
 当然、酒の入った旦那様は烈火の如く怒りその家臣に対して厳罰を申し付け、それを吉住は「藩主の命である」と言って通していた。
 彼はそうして敵対する者たちを悉く退けていたのだ。
 故に、朝永の城には吉住に逆らう者はいなかった。

 旦那様が一言「八束の家から持ち込んだ物は気に入らん」と言えば、吉住は平気で嫁入り道具を召し上げた。
 召し上げられた物はそれに(とど)まらない。
 着物に簪、果ては書道具まで奪われた。
 無くては困る最低限の着物などは朝永で手に入る物を与えられたが、婚礼の折に実家から運んできた物は全て私の前から姿を消した。

 後から知った事だが、私が嫁いで間もなく、朝永は藩主の乱行の噂が江戸まで漏れ聞こえ、ご公儀から一万石に減封されたのだそうだ。
 減封で苦しくなった藩の財政の足しに、私の身の回りの品は売られてしまったという。
 思えば、その頃から城内での私への風当たりは余計に強くなった気がする。
 余所者が余計な事を口走ったせいで減封になったと吉住が吹き込んだのだろう、皆が皆旦那様と吉住に右倣えとなり、異を唱える者は誰ひとりいなかった。

 昼間は藩主の妻としての任を強いられ、夜は旦那様の狂気のはけ口にされる……そんな日々が一年近く続いた。
 武家の娘としても、女としても、私はその誇りや尊厳を踏みにじられた。
 本来ならば、一年と言わずすぐにでも自害するところだろう。
 けれど、私にはそれが出来なかった。
 死を恐れていたわけではない。
 この朝永という地獄ではむしろ死んだ方が楽になれるのだ、私には死を恐れるという感情は既になくなっていた。
 ただ、残される者を思うと踏み切れなかった。
 私が死んだ後、イネはどうなるのだろうか。
 八束の両親はどれ程悲しまれるだろうか。
 城を追い出されて途方に暮れるイネや失意に暮れる両親の顔を想像すると、私だけが逃げるわけにはいかなかった。

 とはいえ、私の心身には限界が近付いていた。
 気付けば私の髪は雛鳥の羽毛のように心許なく、頭巾を外して櫛を通せば三寸程しかない髪の毛が音もなくごっそりと抜け落ちた。
「ああ、姫様……おいたわしや……」
 抜けた髪の毛を集めて捨てるイネは、いつも泣いていた。
「イネ、抜けた毛の片付けくらいは私が……」
「いいえ、いいえ!どうかこのイネにさせて下さいませ。イネは、奥様に姫様をお支えするよう仰せつかったと言うのに、この有様でございます……せめて、これくらいはさせて下さいませ」
「イネとて、この城で大層身の縮む思いをしているではないか。だというのに、私を大事にしてくれる。イネ、貴女には本当に感謝している。貴女に何も返せない事が、本当に口惜しい」

 嫁いでからというもの、イネは常に私の傍にいてくれた。
 ……と言うより、私の傍を離れられなかった。
 この頃の私は、食事もろくに喉を通らずひどく弱っていた。
 屏風絵の餓鬼のように痩せ細り、誰かの支えなしでは真っ直ぐに歩けない程に。
 その支えがイネだったのだ。

 けれど、若くもなかったイネは時折腰や膝を痛め、私を支えられない事があった。
 そんな時、親切にしてくれたのが雪という女中さんだった。
 朝永の城で私が来るより何年か前から女中をしていたそうで、家臣たちの目を盗んでは何かと世話を焼いてくれた。
 明け方、旦那様の寝所から廊下に這い出た私を何度部屋まで送り届けてくれた事か。
 彼女は今、息災だろうか。
 もしも叶うなら、いつか会ってもう一度心から礼を言いたい。

 やがて、毎月来ていた月経(つきのもの)がぴたりと止まった。
 よもや子が出来たかと医者を呼んだが、返ってきたのはあまりに酷な見立てだった。
 いや、当然と言えば当然の内容だった。
「もはや、お方様には子は望めぬかと」

 その時の事は今でも鮮明に覚えている。
 私を診る医者の手が震えていた事を。
 餓鬼のような私の風貌が、物の怪か怨霊の類にでも見えていたのだろう。
 その後医者は滋養の薬やら何やらを何度か城に届けはしたものの、結局治療方法が分からず文字通り「匙を投げる」事となった。
 私がいよいよ「死」を現実的に意識したのは、確かこの頃だ。

「……私は、このまま死ぬのだろうか」
 脇息で体を支えながらぽつりと零した独り言に、イネはさっと顔色を変えた。
「何を仰りますか!」
 イネは例の如く泣き崩れた。
「イネ、そのように泣くな。私は、ここで果てる事を無念とは思わない。私は八束の娘、武家の娘だ。武門に生まれし者であれば、敵に捕らわれ命を奪われる事は決して恥ずべき事ではない」
「姫様……」
 そう口にした私の心は不思議と穏やかだった。
(ああ、これが母上の仰っていた事か……)

「万に一つ、貴女の尊厳が冒されるような事になろうとも、貴女の才と培った知恵は何人にも奪われはしないのです」

 かつて母上に教わった平家物語。
 すっかりのめりこんで全文を覚えてしまっていた。
 その中の「千手前」では、源氏に捕らわれた三位中将(たいらの しげひら)の様子が語られている。

「『弓矢を取る習い、敵の手にかかって命を失う事、まったく恥にて恥ならず。ただ芳恩には、とくとく頭を刎ねらるべし』……」
 私にとって、鬼頭のお家も旦那様も家臣たちも皆、敵であった。
 敵に捕らわれし三位中将の境遇に妙に感じ入ってしまったのもそのせいだろう。
 千手前の中の彼は決して取り乱す事もなく己の首を刎ねろと言った。
「……三位中将は何と潔く、気高いのであろうか。死を覚悟してもなお、武士の品格を捨てなかった。私も、どうせならそのように果てたいものだ」
 ……敵に対し一度は命を救われた恩に報いるため首を差し出そうとした彼に対し、私は生憎鬼頭家に、そして朝永に対して一切恩らしい恩を感じていないという決定的な違いはあったが。

 それからというもの、私は日がな千手前を唱えるようになった。
 刃が走った背中も、鼻血が止まらなくなる程に(はた)かれた頬も、千手前を呟けば不思議と痛みが遠のく気がした。
 念仏のように唱える事で、私は私の心を失わずに済んだ。

 母上に習った千手前が、当時の私を辛うじて生きながらえさせてくれていたのだ。
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