第19話 零れ落ちる一滴

文字数 3,416文字

 従重への返答の期限を迎え、夕刻紘子は由作・のぶ夫妻の長屋を訪ねた。
(養女に出す事には一度は納得していたけれど、心変わりもあるかもしれない。何よりたきはまだ八つ……親なら手放すのが辛い筈だから)
 本来ならば昼間のうちに訪ねるところだが、刻限の際までよくよく考えてほしいと、紘子はこの時刻まで引き延ばしていた。
(どのようなご返答でも、受け入れて従重様にお知らせしよう。あの方は、きっと根はお優しい方だから……たきとご両親の選択が何であれご理解下さるに違いない)
 短く息を吐き、紘子が長屋の戸に手を掛けようとした時……。
「冗談じゃないよ!何だって今になってそんな!」
 部屋の中から突然怒鳴り声が聞こえてきた。
(この声は……のぶさん!?)
 何事かと、紘子は声を掛ける。
「のぶさん、紘子です!何かあったのですか!?」
 直後、スパン!と戸が走りのぶが姿を見せた。
 怒りと焦りを露わにしたその顔に、紘子は思わず息を呑む。
「お紘さん、一刻も早くたきを連れていっておくれ!あんたにしか頼めないんだよ!」
 のぶはたきを紘子に押し付けた。
 すると、のぶの背後に由作が迫る。
「ふざけんじゃねぇ!そいつを売らねぇと家も何もかもなくなっちまうんだぞ!」
(「売る」……!?)
 紘子はたきとのぶ、そして由作を順に見やった。
「お紘さん、行っとくれ!」
 のぶはぴしゃりと戸を閉め、由作を足止めする。
 何が何だか分からず、紘子はたきを見下ろした。
 すると、たきはそれを察したのか手短に告げる。
「おっとうが、しゃっきんをかえせないから、わたしをうるって……」
 たきの言葉は幼いなりにも的を射ていて、紘子はその一言で何となく状況を悟った。
 だが、こういう時にどうすればいいのか、いくら紘子でも瞬時に判断は出来ない。
 ただ、本能的に「逃げる」という選択肢が頭に浮かび、
「とりあえず、あづまにでも行こうか。あそこなら、旦那さんも女将さんもいる。お侍様との約束は夜だから、それまであづまにいよう」
 と、たきの手を引き駆け出す。
 走りながら、紘子は懸命に心を落ち着け状況を整理した。
(これまでののぶさんの様子には、返せない程の借金がある事を隠している様子は全く無かった。恐らく、先程怒鳴っていたあの時に初めて知ったのだろう。それならば、借金をこしらえたのは由作さんで間違いないと思う。ならば、その目的と相手は一体……?)
 生活苦からの借金ならば、のぶが知らない事は不自然だ。
 不意に、昨日千代が何か言いかけていたのを紘子は思い出した。

「ただねぇ……由作さんなんだけど、最近妙な噂があってね……」

(ああ、あの時続きを聞いていれば……)
 紘子は亡き母の思い出に気を取られていた事を後悔しつつも、たきとあづまに走る。

 ……しかし。
 長屋を出て間もなく、柄の悪い男が数人、紘子とたきの前に立ち塞がった。
 暮れなずむ夕刻の光が、男たちの横顔を照らす。
「おい、そいつは由作の娘だな?こっちに渡してもらおうか」
(この方々は、借金取りに違いない……)
「……」
 紘子は無言でたきを背に隠した。
 その瞬間、彼女の脳裏に昨日重之介が口にした言葉が甦る。

「流れる川の一滴を掬わんとする者は、時としてその激流に呑まれ身を滅ぼす」

 紘子は自覚した。
 己がまさに今その「一滴」を掬わんとしている事を。
 だが……もう、後には退けない。
(私には、この子を見捨てる事は出来ない……。申し訳ございません、重之介様……)
「由作さんは、何をして貴方がたから借金を?」
 借金取りの男は紘子の問いに薄ら笑いを浮かべる。
「何だいお嬢さん、そんな事も知らねぇで首突っ込んでやがんのか。まぁいい、これを聞けばあんたも納得せざるを得ねぇだろう……由作はな、博打にはまっちまったのよ」
 のめり込んでいつの間にか全財産をすり、軽い気持ちで金を借りたが最後、次第に金銭感覚が麻痺していき莫大な額の借金を背負うはめになる……博打とは、遊び方を間違えば人を奈落に落とす恐ろしい娯楽だ。
 日頃小間物の行商で慎ましい稼ぎしか手にしていなかった由作が、たまたま博打で当たりを引き一時的な金を得たとしたら、それに目が眩み欲が出てのめり込んだとしても不思議ではない。
「恐れながら……」
 紘子は震えそうになる声を抑えつつ、借金取りに言った。
「この子は由作さんの借金の返済期限よりも前に、養子縁組の話が決まっております。ですからこの子を借金のかたに売る事は出来ません。返す方法なら他にありましょう。由作さんがこしらえた借金なら、由作さんが働いて返すべきです」
「お嬢さん、舐めた口叩いちゃ駄目だ。由作が死ぬまで働いても返せねぇ額だから、娘を売るって話なんだよ。金を返せなきゃ身売りする、それくらい常識だろう?」
 一歩、また一歩と借金取りが近付いてくる。
「それともお嬢さん、あんたが代わりに売られてくれるのかい?よくよく見りゃあんたなかなかの上玉じゃねぇか。あんたが稼ぎゃ由作の借金もあっという間に返せそうだなぁ」
 たきは紘子の着物にしがみついた。
(重之介様の仰っていた事は、きっとこういう事だったのだ……)
 生半可に火事場に首を突っ込めば火の粉を被る。
 不用意に川に近付けば、足を取られて流される。
 由作一家の借金問題が、今紘子にも及ぼうとしていた。
(それでも……たとえ全てを奪われようと……)
 紘子は母の言葉を再び思い出し、唇を引き結び後ろ手にたきを守ろうとする。

 いよいよ男の手が紘子の肩を掴もうとしたその時。
「たきを返せぇっ!」
 のぶの絶叫が聞こえ、紘子とたきははっと振り返る。
 ……これが、母親というものだろうか。
 のぶは鬼気迫る表情で借金取りを追いかけてきたのだ――その手に包丁を握りながら。
(の、のぶさん――駄目!)
 紘子は今度はのぶとたきの間を遮るようにして立った。
(人に刃物を向ける姿を、子供に見せては駄目!)
 だが、完全に頭に血の上ったのぶは借金取りしか目に入らないのか、包丁を振り上げ突っ込んでくる。
「見ろよおい、包丁だってよ」
「あんなので俺たちを()れるとでも思ってのんかね」
 借金取りたちは腹を抱えて笑い、そのうちのひとりは
「あれにゃ、『これ』がおあつらえ向きってな」
 と、下卑た笑みを見せながら紘子の背を突然強く押し出した。
(えっ……?)
 いきなりの事に、紘子の思考は停止する。
 押された勢いで数歩前に出ると、道の小石に躓きつんのめった。

 ……その事の後は、本当に一瞬の出来事だった。
 「ズッ」というような、耳慣れない短い音。
 何やら上胸に違和感を覚え紘子がそっと視線を下げると、自身の着物から包丁の柄が突き出ている。
 いや……包丁が、上胸に突き刺さっている。
「あ、あああ……」
 我に返ったのか、のぶは青ざめた顔で紘子を見つめていた。
「けっ、ざまぁねぇな!」
 笑い声を上げながら、借金取りはたきの腕を掴み引っ張る。
「たっ……たき……」
 紘子は振り返って手を伸ばそうとしたが、それも叶わずぐらりと体が頽れた。
 次第にぼやけていく視界の中でたきが男たちに連れていかれるのを見て、紘子は己が今「激流」どころか「濁流」に呑まれている事を悟る。
 流れる川の一滴……その一滴さえも掴めないまま。
 指の間から一滴が漏れ落ち、流れに紛れて消える……大事な一滴をもはや取り返せない事に、紘子は「絶望」の二文字を見た。
 それでも、紘子はのぶに縋り付き声を絞り出す。
「たきが、たきが道の角を曲がるまでは……このまま」
「お、お紘さん……?」
「たきに……見せてはいけない……あの子は賢いから……全てを知ったら……自分を、責めてしまう……」
 たきは茫然自失のまま男たちに連れられて小屋の角を曲がる。
 それを見届けたのぶは、間違いとはいえ紘子を刺した事に改めて恐れおののき、
「あ、あたしゃ何て事を!」
 と慌てて包丁の柄を握る手に力を込めた。
「だ、駄目……」
(待って!今抜いたら……っ)
 紘子はのぶを止めようとするが、間に合わず……。
 のぶが包丁を抜いた傷口からは、しゅうっと鮮血が噴き出す。
 紘子の視界は、一気に暗くなった……。
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