第46話 重実、走る・参

文字数 3,616文字

 とっぷり夜も更けた頃、ようやく子細話し終えた武貫は、藩主である息子が現在参勤で滞在している藩邸に戻った。
 武貫の乗った駕籠が見えなくなるまで門の外で見送った親房と菜緒が自宅に入ろうと踵を返すと……。
(蹄の音? このような時分に、一体何事だろうか……)
 遠くに響く馬の足音に、親房は耳を欹てた。
 どんどん近く大きくなる蹄の音を聞き、隣に立つ菜緒も首を傾げる。
「こんな遅くに何でございましょう? 何やらこちらに近付いているようですが……」
「菜緒、お前は先に屋敷に入りなさい。賊や辻斬りの類がこうも音を立てて馬を飛ばすとは思えないが、念のためだ」
「はい……あなたもどうかお気を付けて」
 菜緒は親房に小さく頭を下げ屋敷に戻った。

 馬は角を曲がりいよいよ田邉家の門前に迫る。
 親房の手は無意識のうちに腰の刀に伸びた。
 とうとう門前まで来ると、馬は一気に速度を落として止まる。
「このような夜分に何用か!」
 親房が声を張ると、馬上から男が転がるように降り、親房の前に立った。
 男は肩を激しく上下させ、息を切らしながら詫びる。
「ご、ご無礼仕る……」
 その声に、親房ははっとした。
「重実か……!? 如何した!」
「田邉殿に、お願いしたき儀がございます……事は一刻を争います、何とぞ、何とぞ……っ!」
(あの重実がここまで狼狽するとは、一体何があったというのだ……)
 自分の知る重実とはひどくかけ離れた様子の彼に動揺しつつも、親房は
「とにかく、話を聞こう。さあ、中へ」
 と促す。

 挨拶もそこそこに重実から告げられた内容に、親房は内心頭を抱えた。
(いきなり来たかと思えば、これから信州まで付き合えとは……。参ったな、父上に託された一件もあるというのに……)
「重実、そうまでして急ぎ信州に行かねばならん訳を聞かせてくれ」
 親房が問うと、重実は時が惜しいとばかりに早口で事の次第を吐き出す。
「信州旧朝永藩主殺害の件について、濡れ衣を着せられたまま沙汰を下されようとしている者がおります。急ぎ証を立てねば、首が刎ねられましょう」
「朝永……藩主殺し……?」
 親房はひとりぶつぶつと呟いた。
 それから、何かを確かめるかのように重実に訊ねる。
「重実、その下手人とはもしや……藩主の妻か?」
「そ、そうです! ……正確には、『元』妻ですが」
(間違いない……こんな形で父上の遺恨の種が転がり込んでこようとは……)
 親房は人知れず息を呑んだ後、菜緒を呼んだ。
「これより急ぎ城と伊豆守様の元に参り、明日早朝には信州に出立する事になるだろう。支度を頼む」
「は、はい」
 頷きながらも瞠目する菜緒と、早速立ち上がる親房を交互に見て、重実は勢いよく頭を下げる。
「かたじけない……っ」

 重実を連れて城に入った親房は、その道中で紘子に関する詳しい事情を重実に確認しながら、真っ直ぐに書庫に向かった。
 そして、到着すると燭台の明かりを頼りに書状の束をほじくり返す。
「田邉殿、何をお探しなのですか?」
 親房は手元に目を落としたまま問い返した。
「離縁したというのが真であれば、その旨を報告する書状が公儀に届いて然るべきであろう。『八束幹子』なる者の離縁状が本人ごと行方知れずとなっているならば、公儀に送られた書状を証とする他あるまい。そう思って探しているのだが……」
 しかし、当時の朝永からそれらしき書状は届いていない。
「離縁の届けがないという事は、離縁が成立してしないか、藩の者が成立した事を知らずに八束幹子を下手人として届け出たかのいずれかであろうな」
 親房の推測に重実は首を振り、そのひとつを否定する。
「離縁は確かに成立している筈です。藩主直筆の離縁状を持っているとひろは言っていました。あいつが俺に嘘など吐く筈がない……」
「……ならば、藩の者が離縁を知らぬという事になるが、はたしてそのような事があるのだろうか。私には少々解せんが」
「それでも……あいつは決して俺に嘘は吐きません」
 重実は頑ななばかりか、相当に焦っているように親房には見えた。
「重実、『らしく』ないぞ。今一度冷静になれ」
「……っ、すみません」
 重実はふっと息を吐き心を鎮めようとする。
 そんな彼の様子に、親房はふと昔を思い出した。
「私の知るお前は、常に心の奥に『隠し袋』を持っている、そんな奴だった」
 突然の一言に、重実はきょとんと親房を見つめる。
「生まれついての嫡男故か、お前は私と違いどことなくいつも余裕というか……『風格』を醸していた。多少の事には動じない度胸とでも言うのだろうか。恐らく、ゆくゆくは藩と家を背負わねばならぬという覚悟を幼き頃より抱いていたせいなのだろうがな。だが、そんなお前が私の前で一度だけ我を忘れた事があっただろう? 覚えているか?」
 重実は数秒視線を彷徨わせた後、
「ああ……」
 と思い至った。
「……あれは確か、田邉殿が他流派の門下生に袋叩きにされていた時でしたか」
 親房は羞恥心から苦笑いを浮かべて頷く。
「謂われのない因縁を付けられ一方的に叩き伏せられていた私を偶然見つけたお前は、お前よりも遥かに大柄な剣士五人を相手に突っ込んでいったっけな。私が敵わぬ相手だったというのに、お前は次々と伸していき……実に強かった。いつものお前ならば相手が悲鳴を上げた辺りで大声を出し、役人を呼ぶなどしたであろうが……あの時のお前は眼前の敵しか見ておらず、小手を打たれもはや木刀を握れんという相手を容赦なく叩こうとした」
 今度は重実が気まずそうに視線を落とす。
「……お恥ずかしい限りです」
「今のお前は、あの時のお前に似ているぞ。なぁ重実、お前には、承服しかねる事や得心のいかぬ事をそっと『隠し袋』に押し込み心の平静を保つ癖がある。それはそれで良き事だ、特に多くの家臣を従える立場であればな。だが、『隠し袋』に入りきらんものを抱えると、お前は途端に視野を狭めて大局を見失う。お前にとってその『八束幹子』という女がそれだけ大きな存在だという事は分かるが、焦って大局を見失うな。お前が今為すべきは、幹子殿の濡れ衣を晴らす事。そのために幹子殿を救う『証』に足る物を見つけ、朝永に持ち込む事であろう?」
「はい……」
 重実が落ち着きを取り戻してきたところで、親房は再び手を動かした。
 暫くして、城の修繕や寺社への寄進などについて生前の鬼頭貞臣が江戸に送った書状が数通発見される。
「このようなものばかりではな……せいぜい、離縁状がこちらの手に入ったとして、その筆致が当人のものである事を証す事しか出来ん」
 そう呟きながら別の書棚をあさった親房は一冊の帳面を手に取った。
 表紙には「松代雑記」とあり、中身は信州松代藩士によるとりとめもない日常の記録のようだ。
「江戸に藩内の様子を伝えるためにしたためられたものであろう。時折ご公儀が各藩の日常を知るためにこうして取り寄せる事があるのだ。無論、内容は各藩の国家老辺りが確認している故、ある程度の信憑性はある。取るに足りん事ばかりが書かれているようだが……ん?」
 頁を捲る親房の手が止まる。
「田邉殿、何か?」
 重実も親房の横から雑記帳を覗き込んだ。
「……松代の寺の僧と国家老の雑談が記録されている。内容の殆どは他愛のない身の上話だが、当時信州で流れていた噂についても話している。同じく信州にある朝永藩内にて、紘蓮という僧が寺を抜け出し姿を消したらしい、と。しかも、紘蓮は殿の奥方を拐かしたやもしれんと」
 重実は僅かに目を見開く。
「紘蓮は、ひろ……当時の幹子を城から連れ出した者です。ひろにそう聞きました」
「では、噂は真の事であったか……。この雑談、二年前の弥生二十五日に家老がこの僧のいる寺を参った際にされたものと書かれている。つまり、紘蓮なる者が朝永の寺を抜け出したのは少なくとも弥生二十五日かそれよりも前という事になる。紘蓮が間違いなく幹子殿を連れていたと証が立てられれば、この雑談も濡れ衣を晴らすのに使えるやもしれんな。さて、ここで集められるものはひと通り集めた。次は伊豆守様のお屋敷に向かうぞ」
 伊豆守とは、親房の上役である老中松平信綱の事だ。
「江戸から離れた旧朝永の裁きに我々が介入するには、上様に仕える幕臣の頂点たる老中から一筆頂くのが手っ取り早い。藩主殺しという重大事に誤った沙汰を下され、それが世に知られれば公儀の威信に関わる。事情を説明すれば伊豆守様ならお力添え下さるに違いない。上手く事が運べば、明日の朝、日の出と共に信州に駆けられるだろう。行くぞ重実」
「はっ!」
 親房は先に見つけた書状とこの雑記帳に加え、鬼頭貞臣殺害の届け出に関して記録された書物を風呂敷に包み、重実と共に城を出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み