第29話 二人の恋心

文字数 4,989文字

 怪我からおよそひと月、紘子はようやく外を歩き回れるまでに回復した。
 紘子が伏せっていた間は、長屋の女性たちが入れ替わり立ち替わり訪ねては粥を差し入れたり包帯を替えたりと世話を焼いた。
 従重の口添えがあったのも事実だが、のぶの件を訴え出なかった事に加えてこれまで何の見返りも求めず子供たちに学問を教えてきた事が思わぬ形で紘子に返ってきたのだろう。

「お陰様で、こうして外に出られるようになりました。本当にありがとうございます」
 そう隣近所に挨拶を済ませると、紘子はあづまに向かう。
 昼を過ぎ客足も落ち着いた頃、紘子はあづまの暖簾をくぐった。
「女将さん、旦那さん、ご無沙汰しております」
 突然の紘子の来訪に、千代は縁台を拭く手を止めて吃驚する。
「お紘ちゃんっ!もう出歩いていいのかい!?」
 前掛けで手を拭いながら主人も厨房から出てきた。
「お紘、元気になったようだな」
 紘子はその口元をふっと緩ませながら頭を下げる。
「はい、ご心配をお掛けしました」
「ねぇお紘ちゃん、働けるようになったら遠慮なく言っておくれよ。あたしたちはいつでも待ってるからね」
 千代の言葉に紘子はゆっくりと頭を上げたが、その目は寂しげに俯けられたままだ。
「その事なのですが……」
 紘子が続けようとすると、来客に気付いた千代が
「あら、いらっしゃい……って、まぁお侍さんも久し振りで」
 と紘子の背後に挨拶した。
 紘子が振り向くと、そこには……。
「重之介様……」
 重之介は僅かに目を見開きながら、
「ひろ……」
 とぽつりと彼女の名を呼ぶ。
(もう、出歩けるようになったのか……)
 重之介は何故か力なく微笑んでみせると、紘子から視線を逸らして千代に
「おばちゃん、今日はかけ蕎麦でいいや」
 と注文を出し表の縁台に腰掛けた。
 見知った快活さが見られずどこかよそよそしい様子の重之介に、紘子は何故か胸の奥がちくりと痛む。
(……重之介様?)

 縁台で蕎麦を待つ重之介は、何か思い詰めた様子でじっと足下を見つめていた。
(何か、お辛い事でもあったのだろうか……?)
 紘子は手持ちの小銭を千代に手渡し、調理場の旦那にそっと声を掛ける。
「旦那さん、海老天をひとつ、付けて頂けますか……」
「……任せろ」
 何かを察した旦那は重之介と紘子を交互に見ながら頷き、天ぷらを揚げ始めた。
 程なくして、千代が出来上がった蕎麦を盆に載せて紘子に差し出す。
「ありがとうございます、女将さん」
 紘子は千代に礼を言い、右手だけでそれを受け取った。
 その不自然な持ち方に、千代ははっとして紘子に問う。
「お紘ちゃん、あんたまさか……」
 紘子はただこくりと頷くだけだったが、これで千代は紘子が今日ここに来た「理由」を悟った。
 やるせない面持ちで紘子を見守る千代の目には、うっすらと涙が浮かぶ。

「お待たせしました」
 重之介は紘子の声にびくりと肩を跳ね上げた。
「あ、ああ……ありがとう」
 重之介は紘子が片手で持つ盆に手を差し伸べる。
(左手を庇ってるのか?ひと月経つが、まだ傷は癒えてないという事か……)
「風の噂で聞いた。結構な怪我をしたんだって?」
 紘子が刺されてから重之介は「重之介」としては彼女と顔を合わせていない。
 紘子の怪我を他所で知ったように装って、重之介はそう尋ねた。
「……はい。ですが、長屋の皆さんに良くして頂いて、この通りです」
「そうか……」
(「長屋の皆さん」……か。城から飛び出した事を歯牙にも掛けていないという事は、城に運ばれた事そのものを覚えていないのか?)
「それから、以前お話ししましたお旗本のご子息様も親切にして下さって」
(……従重の事か)

「兄上には絶対に紘子を渡さない!」

 あの朝突き付けられた弟の言葉の刃が重之介の中でギラリと光る。
 重之介の面に一層寂しさが増した事に、紘子は秘かに息を呑む。
(もしかして、私は知らぬうちに重之介様のご気分を害するような事を申し上げているのだろうか……)
 すると、そんな紘子を見る重之介の胸までも泥を詰められたように重苦しくなった。
(偶然とはいえ、久々に会って言葉を交わしているというのに、俺はひろに何て顔をさせているんだ……俺は、俺が見たいのは……)
「お前が大変な時に顔のひとつも出してやれなくて、すまなかった」
 紘子は瞠目し首を何度も横に振る。
「そんな、滅相もございませんっ……あの、蕎麦が柔らかくなってしまいますので……どうぞ」
「ああ、そうだな」
 重之介は紘子から受け取った蕎麦を見た。
 そして、蕎麦に乗っかった海老天に怪訝そうに首を傾げる。
「俺、今日は海老天頼んでない筈だけど……」
「……私がお願いしました」
「え……?」
 益々解せぬといった様子の重之介の隣に、
「お隣……失礼いたします」
 と紘子が腰掛けた。
 思いがけなく紘子の方から距離を詰めてきた事に、重之介はやや呆気に取られる。
(こいつの方から俺に寄ってきたのは、初めてじゃないか……?)
 対する紘子はその事には気付いていないのか、恥じらう様子も変に遠慮している様子もなかった。
「重之介様のお元気がなさそうでしたので。申し訳ございません、私にはこれくらいしか思いつかなくて……ご迷惑、だったでしょうか」
 切なげに眉根を寄せる紘子に、重之介は珍しく狼狽する。
「そ、そんな事はないさ!」
(こいつにまたこんな顔させて、俺は何をやっているんだ……)
 短く息を吐いて気を取り直すと、重之介はようやく紘子とまともに視線を絡ませた。
「まさか、ひろの方から海老天をもらうなんてな。ほら」
 重之介はいつものように海老天を箸で持ち上げ紘子の口元に運ぶ。
「いいえ、これは重之介様に……」
「いいから、早く」
 紘子は苦笑しながら海老天をひと口齧った。
 その後は、いつものように残りが重之介の口に入る。
「相変わらず、美味いな」
 自然と浮かんだ重之介の微笑に、紘子の口角も釣られて上がった。
「はい、美味しいです」
「……っ」
(参ったな……何て綺麗に笑うんだ)
 
 見惚れた。
 心底、見惚れた。
 一瞬……何も考えられなくなるくるいに。

(この笑顔に、「陰」があるか?)
 図らずも、重之介は紘子の知らない所で彼女の背負う闇を垣間見てきた。
 浮かべる笑みはいつもどこか憂いを帯びていて、体には数多の刀傷、そして……従重から聞かされた「大名家への恐怖心」。
 だが、紘子は今、重之介には陰のない笑みを見せている。
(今のこいつは、俺の前では陰を背負わない。俺といる時だけは、背負ったものの重さを感じていない。それが俺にとっての「答え」だ。こいつの重荷を軽くしてやれるのは俺だ……従重じゃない)
「……寄り添うのが下手なら、力ずくでもその手を引けばいい」
(煌々と光の差す場に、こいつが幸を感じる場に引っ張ってやればいい。暗い所で抱き締めてやるだけが優しさじゃない)
「重之介様?」
 己に言い聞かせるかのように呟かれた重之介の言葉の真意が分からず首を傾げる紘子に、重之介はやっと彼女の知る顔を、彼女が見たいと思った顔を見せる。
 強さと頼もしさを醸し出す「優しさ」に満ちた、不思議と惹き付ける雰囲気を纏って。
「お前がくれた海老天は凄いな。俺の迷いを全部吹き飛ばしてくれた」
 重之介はそう言いながら懐に手を差し込むと、柘植櫛を取り出した。
「約束していた江戸土産だ。あれから随分経っちまったが、もらってくれ」
 控え目ながら手の込んだ装飾の櫛を見て、紘子は目を丸くする。
「このように立派な物を、本当によろしいのですか?」
「立派に見えても浪人の稼ぎで買える程度だ、安心しろよ」
「あ、ありがとうございます……」
(嬉しい……櫛なんて、もうどれくらい縁のない物だったろうか……)
 紘子は愛おしそうに櫛を見つめながらおずおずと両手を差し出した。
「左手、動かせるようだな」
 櫛を受け取った紘子は、重之介の言葉に「ああ」と反応した後答える。
「先程は片手で蕎麦を出して失礼いたしました。全く動かないわけではないのです。ただ、思うように力が入らなくなってしまって……ですから、今日はここにお暇を頂きに来たのです」
「そうだったのか……これから難儀するな」
「幸い、簡単な裁縫ならまだ出来ますから、何とか生きていけます」
 不安を覗かせながらも気丈に告げる紘子に、重之介もこれ以上の同情は不要とばかりに頷いた。
「そうか……何か困ったらいつでも声を掛けてくれよ。力になる。それにしても、意外だな。お前がそこまで強いとは思わなかった」
 紘子は首を横に振る。
「……この手がこうなったのは、手を出してはいけない一滴を掬おうとした代償です。私は強くなどございません、ただその代償を受け容れているだけです。ですが、こうして前を向けるのは、重之介様が仰って下さったからです……『残された生を精一杯楽しく全うするのが先立った者に対する一番の供養になる』と」
 微かな驚きの色を浮かべながら、重之介は
「……いや、お前は強いよ、本当に」
 と返した。
 そして、
「そうだ……それなら、ここでもうひとつお前を楽しませてみたいな」
 と、何を思いついたか意地悪に笑ってみる。
「……どういう事でしょう?」
 重之介は小首を傾げる紘子の手から素早く櫛を取ると、立ち上がり彼女の背後に回り込んだ。
(えっ、重之介様?)
 突然の事に動けずにいる紘子の髪の結び目に、重之介はさくっと櫛を差す。
「思った通りだ、清楚なお前に良く似合ってる」
(……っ)
 背後から囁かれた重之介の声色があまりに甘美で、おまけに「櫛が似合う」とまで言われて、紘子は全身がかっとなった。
 その振動を自覚できる程に心臓が大きく脈打っている。
 胸は鼓動に圧迫されてどうしようもなく苦しいというのに……。
(ああ……何故こんなにも喜びを感じてしまうのだろう)
 紘子は今まさに「胸がいっぱいになる」という気分を味わっていた。
 いっぱいになって、いっぱいになって、口元は笑んでいるのに視界は滲んで仕方がない。
(殿方に櫛を頂くなど……それもこうして差して頂くなど……また、私はこの方に「お初」を頂いた……)
 かつて、櫛を通せばごっそりと抜けた髪。
 酒に狂った夫に懐剣で幾度となく刈り取られた髪。
 この二年でようやく見られるような頭になって、そこに新しい櫛が入る。
 それも……
(……愛しい方の手で)
「……っ」
 無意識に心の中で呟いた一言に、紘子は息を呑んだ。
(私は、今、何と……?)
 あまりにするりと出てきたその言葉が恐ろしくて、紘子は咄嗟に小刻みに首を横に振る。
 「愛しい」の一言を、紘子は懸命に心の奥底に押し込めた。
(これは、私だけの秘め事にしなくては……大切なお方だからこそ、尚更に……)
 この刹那の間に紘子がどれ程の葛藤を胸の内で繰り広げていたかなどつゆ知らず、重之介は紘子の首の振りを単なる謙遜と捉えたようで、
「何だよ、照れる事はないさ。ねぇおばちゃんっ、これ、ひろに良く似合うだろう?」
 と千代に声を掛ける。
 振り向いた千代はまん丸く開いた目を潤ませながら、
「ええ、ええ」
 と頷いた。

「なぁ、ひろ……」
 重之介は今度は紘子の前に立ち、彼女の左手を取る。
「し、重之介様?」
 突然の事に紘子は困惑顔で重之介を見るが、一度自覚してしまった恋情は誤魔化しきれず、その頬は自然と桜色に染まった。
(……お前、何て顔して俺を見るんだよ)
 紘子にその気はなくとも、彼女の表情は重之介の内側をひどく煽り立てる。
 だが、それは重之介の「決意」を後押しした。
 重之介は軽く咳払いして心を落ち着けた後、真剣な面持ちで紘子を真っ直ぐに見つめて告げる。
「もしもこの先お前の歩みが止まるような事があったら、俺がこの手を引く。何処まででも引っ張ってやるよ」
(悪いが従重、俺もお前に譲る気は毛頭ない。ようやく見つけた答えを、これ以上お前に否定させはしない)
 と、秘めた決意をその双眸に滲ませながら。
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