第107話 歯車は動き出す・伍

文字数 2,560文字

 重実にとって、それはあまりに寝耳に水の話であった。
「何故、ここで従重の名が出てくるのだ……?」
 紘子の輿入れに関する問題は、紘子と重実そして公儀にとってのことであり、従重の介入する余地のない話だ。
 しかし、公儀からの書状では、「本物の八束幹子」は行方知れず、本来本物の八束幹子である紘子は「偽物」とされた上に吉住らの拷問の予後不良により死んだことになっており、その偽物を本物として公儀に報告した者として従重の名が記されている。
(旧朝永領での白洲では、従重は田辺殿が用意した密偵ということになっていた筈。ならば、密偵を従えていた田辺殿も……?)
 重実は焦点の定まらぬ目を前に座る親房に向けた。
「田辺殿も……公儀に何らかの沙汰を下されているのですか?」
 親房は俯き、無言でかぶりを振る。
「では、切腹の沙汰を申しつけられたのは、従重のみだと……?」
 訳が分からぬといった面持ちで首を振る重実を見かね、親房は口を開いた。
「すまぬ、重実……他に策が思いつかなんだ……」
「従重に全てを負わせたのは……田辺殿の策だったと?」
「違う!」
 親房は今にも泣き出しそうな顔をして己に向けられた疑いを否定するが、たとえ事実であっても従重の策であることを告げるのはどうにも憚られ、その先は口を噤む。
「では何者が従重の名を公儀に出したのだ! 公儀が従重のみを名指しで……こんな不可解なことがあるか!」
 重実は感情のままに叫ぶと、立ち上がり廊下に出た。
「待て重実、何処に行く気だ!?」
 親房も立ち上がり重実を止めようと彼の腕を掴むが、重実はその手を振り払う。
「従重に直接確かめる。止めないで頂きたい」
「重実!」
 重実が完全に理性を失っていると見た親房は、彼を何としても止めねばと、凄まじい勢いで廊下を歩いていく重実の後に追い縋るようにして続いた。

 何度か親房を振り払い、押しのけながら重実はとうとう従重の私室の前に来る。
「従重、入るぞ」
 重実が問答無用に部屋に押し入ると、従重は短冊に優雅に筆を走らせていた。
「何事ですか、兄上? 全く騒々し――っ!?」
 言い切るより先に、従重は重実に胸ぐらを掴まれる。
「お前、どういうつもりだ」
 殺気立った重実の一言は、いつもの彼とは似ても似つかぬ低音で吐き出された。対する従重はうんざりした調子で気怠げに
「……成程、ようやく公儀の書状が兄上の元に届いたのですか。どういうも何も、書状の通りですよ」
 と返す。従重のその答えを聞き、重実の目は愕然と見開かれた。嘘であってほしい、何かの間違いであってほしい……重実のそんな儚い願いは、確信に満ちた従重の答えで無情にも打ち砕かれたのだ。
「……お前が仕組んだのか?」
「……」
「答えろ従重。お前が仕組んだのか?」
「……」
 従重はふっと微笑を浮かべるばかりで何も言わない。そんな従重の態度に、とうとう重実の我慢が限界に達する。
「お前は己が何をしたか分かっているのかっ!!」
 怒号に続く、鈍い音。部屋の屏風は殴り飛ばされた従重の体で倒された。
「重実! もう止めろ、止めてくれ!」
 追いかけてきた親房が重実を羽交い締めにして必死に制止する。
「田辺殿も田辺殿だ! 従重が何をしようとしているか、貴方は知っていた筈だ! だのに何故止めなかったのですか!」
「……っ!」
 親房とて躊躇った、止めようとした、だが従重の覚悟と他に策の無い絶望的な状況がそれを許さなかった。だが、それは重実にしてみれば言い訳に過ぎない。親房は反論できず言葉を呑み込むしかない。
 すると、口元の血を拭った従重が声を上げる。
「それ見たことか、兄上!」
 突然の嘲りに、重実は睨みを返した。しかし、従重に怯む様子はない。
「兄上は気付いておらぬのだ。己が既にどうにもならぬほど追い詰められておることに。そうして平静を失っておるのが何よりの証だ!」
「なっ……」
 怒りに歪んでいた重実の瞳が揺れる。
「兄上の策はまるで相手にされず、頼みの田辺殿の奔走も虚しく、瀬見守様の嘆願も聞き届けられぬ……されど俺の策はすんなりと通った。つまるところ、紘子の輿入れを阻む最善手は俺の策であったということだ。最善手に乗らねば兄上は全てを失う、されど余計なことを考えず黙って乗れば全てが丸く収まる。一国の主であるならば、どちらを取るべきかは明らかであろう」
「そういうことではない……たとえそうであったとしても、そういうことではない……」
(お前の……お前の命を犠牲にして、何が丸く収まると言うのだ? お前は、俺にとってたった一人の肉親だろうが……)
 心の嘆きを言葉にできず、重実は呆然としたまま従重を見つめた。そんな兄の心中を察してか、従重の口調は穏やかになる。
「兄上、兄上は右の肩に峰澤の民を、左の肩に清平の家臣を背負うておる。両の肩が重荷で塞がっておるというに、兄上は何処に紘子を背負うつもりか。空いておる背に紘子を乗せれば、兄上は重みに耐えきれず皆を落としてしまおうぞ。ならば紘子の人生は俺が背負う。紘子がただ一人添い遂げたいと願うておる兄上と生きていけるよう、俺が背負う。兄上のためなどではない、紘子の幸いのためだ。故に兄上が気に病むことなど何もない」
「従重、お前……」
 重実はようやく悟った。清平の家の者として、従重が真に守りたいと思い命を懸けているものが何かを。それを守るために決めた覚悟を否とすることなど、重実にできる筈もない。
 従重は徐に立ち上がり、倒れた屏風を直しながら言う。
「兄上、一杯やりませぬか」
「……は?」
 弟の突然の申し出に重実は些か面食らった。
「思えば、俺は兄上と差しで酒を酌み交わしたことがない。一度くらい付き合うてはくれませぬか」
「……」
(あああ……)
 重実は俯き、肩を震わせる。
(今、こいつはどんな思いでそれを言っているのか……。こんな筈ではなかった、こいつの人生は……こいつにこんなことを言わせるなど、俺は望んじゃいなかった……)
 ならばどうするというのか。他に手がないと分かっていてなお逆らおうとするのか。そうしたところでどうにもならないことは、この場にいる三人にはとうに分かりきったことだ。
「……お前の気の済むまで、一緒に飲んでやるよ」
 掠れた声でそう答えた重実の濃鼠色の袴には、雫が染みを作っていた。
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