第33話 その手を引くのは・参

文字数 3,519文字

 暗くて周囲が判然としなくなる中、重実は紘子の手を引いたまま商家の並びを駆け抜け、橋を渡る。
 城の堀に架けられた橋だ。
 橋を渡り茂みに飛び込むと、そのまま藪に入り獣道のような坂を右に左にと上っていった。
 いつしか雨足は強くなり、二人とも全身ずぶ濡れだ。
(この方は重之介様で間違いない筈だけれど……一体、何処に行かれるおつもりなのか……)
 疑問に思いながら手を引かれるまま進むと、坂を上りきったところで茂みを出る。
 その先にあるのは、漆喰の塀だった。
(まさか、ここは……)
 紘子の体に悪寒が走る。
 横に低く長く伸びる漆喰の塀は、城壁以外の何物でもない。
 途端に足が竦み、紘子はその場に立ち止まった。
 ここで、ようやく重実が振り向く。
 重実は今にも鼻先が触れそうな距離まで紘子と顔を近付けると、はっきりと口にした。
「ここにはお前に害を為す者は何人もいない!」
(この声、やはり重之介様で間違いない……けれど、今の口ぶりはまるで……)
 「この方はこのお城に縁のある偉い方で、私の過去をもご存知のような言い方だ」……と思いそうになるのを、紘子は無理やり止めた。
 気のせいだと、必死に己に言い聞かせる。
「――俺を信じろ、ひろ」
 低く口早に呟かれたその声は、激しくなる雨音の中でもしっかりと紘子の耳の奥を震わせた。
(私は……)
 まるで信じる以外の選択肢を知らぬかのように、紘子はただ黙って頷く。

 重実は塀の隠れ木戸を開け、紘子と共にくぐった。
 くぐった途端頭上から注がれていた雨は止み、そこが屋根のある空間だという事が分かる。
 木戸を閉め、雨が滴る着物の袖を絞りながら重実が口を開いた。
「ここまで逃げれば、さすがに見つからないだろう」
「し、重之介様……」
 とにかく助けてくれた礼を重之介に言いたい、しかしここが何処で何故重之介がここまで連れてきたのかも訊きたい、更に重之介が何者なのか不安でたまらない……整理が付かず混乱する紘子は、重之介の名を呼ぶのがやっとだ。
 重実は辺りを物色して麻の筵を引っ張り出すと、それを地べたに敷く。
 そして、紘子の両肩に手を置き、
「とりあえず、座って息を整えろ。話はそれからだ」
 と筵に座るよう促した。
 座り込んだ紘子の呼吸が次第に戻っていくのを感じ、重実も彼女の左隣に腰を下ろす。
「これは『長屋塀』って言ってな、塀に見えて実は細長い蔵になってる。普段は蔵として武具をしまっておいたりするが、有事の際には武器庫や弾薬庫として使われるだけでなく、中に入って狭間から敵兵を攻撃する事も出来る……なんて、この泰平のご時世には蔵以外の使い道はないんだがな」
「な、何故このような場所を……ご存知なのですか……?」
 紘子の声は震えていた。
「まぁ……長く住んでいるからな」
「し、重之介様は、一体……」
 「何者なのですか」とは、怖くて訊けない。
 だが、(つか)えて出せないその問いを、重之介は残酷にも言葉にしてしまう。
「……何者だと思う?」
(我ながら……卑怯だな)
 そう思いながらも、重実は紘子の答えを待った。

 一方、紘子は無意識のうちに何度も首を細かく横に振る。
(この方は、私が既に見抜いていると知ってこうお尋ねなのだ……私の口から、言わせようとなさっているのだ……)
 紘子の推理は恐らく間違ってはいない。
 しかし、彼女には重之介が何故そのような惨い仕打ちをするのかが分からなかった。
 途端に重之介の存在が遠くなっていく、自分の知る重之介ではなくなっていく……そんな気さえしてしまう。
「お……お城に……ご縁のある方……ですか?」
 聡明な紘子にはおよそ似合わぬ歯切れの悪い答え。
 それを口にする声は時折裏返り、震えも酷くなっている。

(やはりこいつはもう勘付いてる。勘付いてて、こう言ってるんだ)
 その声色から、真実を否定したい紘子の気持ちが重実にはひしひしと伝わってきた。
 重実は胃の中がぐるぐると回るような緊張を感じた。
(遠回しに訊きやがって。そうだよな、「ちょっとしたご縁のある方」止まりなら良かったのにな……そうか、お前はそこまで「大名」が恐ろしいか)
 逃げずに立ち向かう気概があっても、それは恐怖を感じないという事ではない。
 正体を知られれば拒絶されるかもしれない、それも、最も拒絶されたくない相手に……そうした恐怖心が重実の中で渦巻いていた。
(真の事を知られて切れる縁ならそれまでだと、そう思っていたくせに……それを拒みたいのは、結局俺の方じゃないか……)
 己の「弱さ」を胸の内で自嘲し、重実はそっと紘子の左手を取る。
「っ!」
 驚いた紘子の手がびくりと跳ねた。 
 雨に体温を奪われたのか、それとも恐怖に血の気が引いたのか、その手はひどく冷たく彼女の声のように小刻みに震えている。
(これ以上は酷だよな……俺も腹を括るか)
 重実は紘子の左手を優しく握った後、するりと指を絡ませた。
(重之介様……?)
 手つきは優しいのに、絡んだ指はまるで紘子を逃すまいとしているようだ。
(やめて下さいませ……どうか、どうか全て冗談だと、戯れだと仰って下さいませ……)
 嫌な予感ばかりが紘子の胸に広がり、圧迫していく。
 だが、紘子の願いも虚しく……。
「……やはりひろは賢いな」
 重之介の口からぽつりとそう零れた。
(い、嫌だ!)
 紘子は力の入らない左手を咄嗟に引こうとする。
(逃げるな。最後まで聞け)
 重実はほんの少し指に力を込めた。
 紘子の手が、動きを止める。
「俺の真の名は、清平重実。この峰澤の――藩主だ」
「――っ!」
 紘子は息を呑んだ。
 心の何処かで予感していたとはいえ、それは紘子にとってどうにも残酷な答えに聞こえた。
(私は、とんでもないお方と関わってしまった……)
 返す言葉が思い付かないまま、紘子の頬を何かが伝う。
 顎先から滴り落ちたそれが雨の雫か涙かも分からぬうちに。
(重之介様……いいえ、お殿様は、私の事をどこまでご存知なのだろうか……)
 紘子の中で、様々な思いが巡る。
(私が追われる身である事もとっくにご存知だろうか……)
 現代のような科学捜査や綿密な裏付け捜査などが行われなかったこの時代、一度下された重罪の沙汰を覆すのは容易な事ではなかった。
 朝永藩主殺しの件で言えば、一国の家老たる者が物的証拠として簪を幹子の物だと称し奉行所に差し出したばかりか、当の幹子が行方知れず……と、あまりに幹子に不利な状況が重なっている。
 仮に幹子が出頭し無実を訴えたところで、拷問に掛けられありもしない罪を自白させられるのは明白だ。
 たとえ、幹子が無実を証明する品を持っていたとしても、奉行所が正しく扱う保証はどこにもない……要するに、揉み消される。
(こうなった以上は、せめてご迷惑にならないようにすべきだ。私と関わった事が他に知られてしまったらお殿様のお家がどんな処罰を受けるか……。お殿様には私を見ず知らずの手配人として奉行所に突き出して頂く……そうすれば、お殿様のお家を汚す事はない。罪を着せられた時点で私の命は奪われていたようなもの、今更死罪を恐れる事もない……)
 不思議と涙は止まった。
 紘子は重之介――重実の方を見ぬまま、
「……どうぞ、私を奉行所に差し出して下さいませ」
 と淡々と告げる。
 だが、そう言い切った直後、止まった筈の涙が滔々と溢れ出した。
 これが彼との今生の別れになるかもしれないと考えると、涙が次から次へと零れ落ちる。
(全く……こいつはどこまで己を犠牲にするたちなんだ)
 重実は紘子の肩に腕を回して抱え込む。
「罪なきおなごを奉行所に突き出しなんぞしたら、末代までの恥だ」
(やはり、お殿様は私の素性をご存知なのだ……けれど……)
 はた、と紘子は重実を見上げた。
「今、何と……?」
(お殿様は、私を下手人ではないと思われている……?何故……?)
 暗がりの中では紘子の表情を読み取れない。
 重実はその声色で彼女が驚いている事を察し、くすっと笑う。
「包丁で刺されても何一つ訴え出ないような奴が、人を殺めてのうのうと生きていられるわけがないだろう。お前に人は殺せないよ」
 重実は紘子の肩を抱く腕に力を込めた。
「俺はお前を信じている。だから教えてくれ……お前の本当の名を、お前の正体を」
 地面を叩く雨音と重い沈黙が二人の間に流れる。
 やけに長く感じられた数秒の後、紘子は口を開いた。

「私は……八束幹子です」
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