第67話 朝永藩主殺害顛末

文字数 5,460文字

 ――二年前、信州朝永。

(全くもって、割に合わぬ)
 朝永犯国家老の吉住是直は、苦々しい面で馬を繰る。
 信州の雄藩、松代にて近隣の国家老たちが顔を合わせ各藩の政について報告する会合が開かれたのは、昨日の事。
 参加した藩の中で最も遠い朝永から足を運んだ上に、石高も最低に近い藩故に他藩の国家老たちの視線も冷ややかだった。
 もっとも、他藩にそう見られているのは酒浸りの藩主のせいで石高を減らされるという武士にあるまじき醜態を晒しているせいなのだが。
 苦労して一日がかりで松代に赴いても、他藩の家老たちに蔑まれへこへこと頭を垂れ、ろくに発言さえ出来ない。
 藩政を立て直し己の一死を以てでも主君を戒める……吉住にそんな気構えでもあれば状況は変わっていたのかもしれないが、元よりこの男にあるのは出世欲と支配欲であり、それらを叶えるために己が汗を流すのではなく他者に涙を流させる事を平気で選ぶのが彼の本性だ。
 故に彼は、苦労に見合わぬ屈辱を味わわされただけの時間を恨むばかりだった。

 ようやく城に到着した吉住は、その足で藩主鬼頭貞臣の部屋に向かう。
「殿、吉住にございます」
 名乗って襖を開けると、室内に充満した酒の臭いが鼻をついた。
(相変わらずの酒浸りか……まぁよい、酔っ払って転がってくれている方が御しやすい)
 本来、室内から「入れ」と許しが出て初めて襖を開けるものだが、鬼頭にそうしたまともなやり取りなど期待出来ないと知っている吉住はこの半年程はこうして勝手に襖を開けて入室する。
 脇息に凭れながら酒を呷る鬼頭は、案の定吉住を見るなり
「おい、酒が足りんぞ。酒を持て」
 と据わった眼で命じた。
 わざとらしいくらいに恭しく笑んだ吉住は、
「ええ、女中にすぐに持たせますので暫しお待ちを。それより殿、松代での会合滞りなく終えました事をここにご報……」
「さっさと酒を持て!」
 鬼頭は吉住の言を遮り酒をねだる。
 吉住は一瞬頬を引きつらせたが、それを笑みで隠した。
「ははぁ、ただ今」

(日々の酒代にも苦心する昨今の懐事情など、あのお方は全く心得ておらぬ。先代もよりによってあのような愚息だけ遺しおって。あれでは朝永はいずれ潰れよう。だが……)
 吉住は女中に酒の追加を命じた後、鬼頭の正室である幹子の部屋に向かいながらにやりと口元を歪める。
(先代が出来の良い息子を遺されていたならば、今頃私の思うままに藩を動かす事は出来なかったであろうな。そう考えると、生ける屍としてああして飼い殺せる方が私にとっては都合が良い。藩主という立場の威光を意のままに扱うのは実に気分が良いからな)
 正直なところ、鬼頭家への忠義など微塵もない。
 この泰平のご時世、隣国との戦を勝ち抜く名君など必要ない。
 必要なのは、城を我が物顔で闊歩するための傀儡。

(さて、酒代を用立てねば。あの女の事だ、まだ着物の何着かは隠し持っておるだろう。鬼頭家の正室として相応しくない柄だとでも文句を付けて召し上げるとするか)
 吉住は幹子さえも傀儡として扱う腹づもりだった。
(生かさず殺さず、追い詰めた末にまともに頭の働かぬようになればこちらのもの。八束家が持つ人脈さえ手に入ればそれで良い)

 吉住は、このままではいずれ鬼頭家は跡継ぎに恵まれず取り潰しになるのは必定と見ている。
 しかし、幹子に子を産まれては困る事情もあった。
(女は子を持つと人が変わる。子を守るためならばなりふり構わなくなる。まして嫡男でも産んでみろ、八束の家が調子付きこちらに如何な手出し口出しをしてくるか分かったものではない。だが、嫁いだにもかかわらず子の出来ぬ体だと言われればどうか。八束の者共は申し訳が立たず何一つ言えまい。名のある家柄の子を養子にしたいからめぼしい者を探せと命じれば従わざるを得ぬであろう。大名格の扱いとはいえ所詮は旗本であるからな)
 「懐柔」では詰めが甘く、いつ何がきっかけで心変わりが生じるか分からない。
 傀儡にする術は「依存」と「洗脳」であり、「懐柔」であってはならない。
 それが吉住のやり方だった。

「お方様、吉住にございます。少々よろしいでしょうか」
 形ばかりの伺いの直後、吉住は無遠慮に幹子の部屋の襖を開ける。
 そして、暫しの間言葉を失った。
「お方様……?」
 吉住は室内にくまなく視線を走らせる。
 だが、部屋は幹子はおろかいつも付き添っているイネもおらずもぬけの殻、人の気配がない。
 厠に行っているのだとしたらここまでの廊下の何処かで必ずすれ違っている筈だ。
(厠でもない、殿の部屋にもいなかった……よもや……)

 吉住は鬼頭の部屋に急ぎ戻った。
「殿、失礼仕ります」
 入るなり、酩酊状態の鬼頭に問う。
「殿、お方様はどちらに? お部屋にも厠にもいらっしゃらぬご様子でしたが」
 酒が届き上機嫌の鬼頭は銚子の口から直接酒を喉に流し込んでいた。
 口の端からたらりと零れた酒を手の甲で拭うと、へらへらと笑いながら答える。
「追い出した」

「殿……今、何と……?」
 吉住は声を震わせた。
「聞こえんかったのか、『追い出した』」
「な、何故でございますか……」
 声に加えて唇まで震えだした吉住に、鬼頭は酒を呷りながら
「人か餓鬼か、生きているのか死んでいるのかも分からぬような体で、口を吸うても股を押し広げても顔色ひとつ変えず明後日の方を見ておるような女が相手では気味が悪うて立つものも立たん」
 と答える。
(このお方は、ご自分が何をしたのかお分かりか?)
 これまで時間をかけて入念に入念に積み上げてきたものが音を立てて崩れていく感覚に、吉住は目眩を覚えた。
(私が、この私がここまでどれ程苦労したとお思いか。二度も奥方を失い、減封の沙汰を受け、それでも多くの金を積んでやっとの事で手にした娘だぞ。しかも、旗本にしては家柄も上々で人脈ならば譜代の大名家にも劣らぬ、あんな掘り出し物はそうそうないと言うのに! よもや、よもやここまで阿呆とは……)
「……殿、お方様には何と仰って暇を出されたのでございますか?」
 震える声で尋ねるが、鬼頭は気怠そうに吉住を一瞥し、
「さてなぁ……覚えておらん」
 と返すとまた酒を呷る。
 銚子の口から出る酒が流れを失い滴となると、鬼頭は顔を歪めて銚子を突き出した。
「おい、酒だ。酒が足りん」
「……ただ今」
 吉住は表情を殺し、
「では女中を呼んでまいります……」
 と言って立ち上がろうとする。
 しかし、鬼頭は
「女を探して声を掛けて酒を持たせ……斯様な事をしていてはいつ酒が届くか分かったものではない。面倒だ、お前がさっさと酒を持てば良いだけであろう」
 と吉住に銚子を転がした。
 藩主とはいえ、一国の家老相手に女中や下男のような扱い。
 この瞬間、吉住の中で「何か」がぷつりと切れた。

 ……吉住が我に返った時には、鬼頭は彼の目の前で白目を剥いて倒れていた。
 鬼頭の腹には吉住の脇差しが突き刺さっている。
「と……殿?」
 吉住は鬼頭の口元に顔を寄せたが、既に息はない。
(や……殺ってしまった……) 
 吉住は鬼頭の腹に刺さった脇差しを慌てて抜き、懐紙で刀身の血を拭った。
(如何する、如何する、如何する……)
 何をどうしようと、鬼頭は生き返らない。
 自分は藩主殺しの罪で死罪、妻子も遠島、吉住家はもちろん主家である鬼頭家も朝永藩も取り潰される。
 血塗れの懐紙が微かな音と共に畳に落ちた。
 しかし、その瞬間彼の頭が回り始める。
(ならぬ)
 吉住は懐紙を拾い上げ、懐に隠した。
(懐紙など残せば、この殺しが武士によるものだと晒しているようなもの。殿の死を隠す事は出来ぬ、ならば殿の死を利用するまで。この城には殿を良く思わぬ者は大数多おるが……)
 吉住の脳裏に、追い出されたばかりであろう幹子の存在が思い浮かぶ。
(「死人に口なし」とまではいかぬが、あの女が殿を殺めて逃げたという事にすれば、上手く辻褄を合わせられよう)
「……愚かな女だ。逃げなどせねば咎人にされず静かに死ねたものを」
 吉住は鬼頭の死体を前にこみ上げる笑いを堪えた。
 
 ここからの吉住の行動は実に早かった。
「殿は酔ってお休み故、決して起こさぬように」
 家臣や女中をそうして言い包めると、急ぎ城を出る。
 馬を走らせ、夕刻には朝永領を出てすぐの小間物屋に何食わぬ顔で入った。
「簪をひとつ」
 身なりの良い五十前後の武士が一人で簪を買いに来るなど珍しい。
 いや、珍しいなど通り越して何か「訳あり」としか思えない。
 小間物屋「佐原屋」の番頭は
「へい、少々お待ちを」
 と愛想良く笑いながら奥に引っ込むと、すぐに店主を呼ぶ。
「旦那様、妙な客でごぜぇます。こんな時分に女物の簪を所望するなど……」
「ふむ……よろしい、私が相手しよう」
 店主は番頭を奥に留まらせ、高価な簪の並んだ盆を手に吉住の前に姿を現した。
 吉住の年格好や着物の材質、腰の刀などから、店主は瞬時に吉住を城勤めの武士、しかも家老格辺りのかなり上位と見抜くが、それはあえて面に出さずに応対する。
「お待たせいたしました。こちらが当店で扱っている簪にございます。お侍様、どのような簪をご所望で?」
(どのような、だと?)
 吉住は答えに窮した。
(あの女が簪を差していたところなど見たこともない。大名の正室が扱うようなものとなるとそれなりのものだろうが、むざむざ殿の側に放るだけに用立てる物に多くの身銭を切るなど……だが、安物では後々不審がられるやもしれぬ……)
 でっち上げる「証拠品」は幹子が持っていそうな物でなければならない。
 下手人が女中に扮して潜り込んだ女で、その遺留品となれば安価な物の方が都合は良いが、吉住は幹子に罪を被せたかった。
 絶妙なタイミングで城から姿を消した幹子を下手人とする方が余程説得力があるからだ。
 そのため、その辺の町娘が持っているような安っぽいものでは駄目だった。
 一方、店主もまた、微かに狼狽の色を窺わせる吉住を懐疑的に見る。
(このような身なりのお武家様ならば、これらの簪ひとつくらい容易く買えように。しかも、このお武家様の目つき……どなたかに差し上げる物をお選びになっているようには見えぬ)
「お武家様、私でよろしければお選びいたしましょうか?」
「そ、そうか」
 店主の言葉に吉住は一瞬ぎょっとしたが、ここで下手に断り訝しまれるのも拙いと思い、微笑んで応じた。
「実は、主家の奥方様が簪をご所望されてな。朝永の鬼頭様なのだが」
「左様でございますか。そういう事でしたら此方からお城にお伺いしますのに」
「いや、お方様は気に入りの簪が折れたとかで、急ぎ一本欲しいと仰せでな」
「それはそれは……」
 店主はいよいよ怪しいと思い始める。
(どうしても急ぎで入り用ならば、侍女に買いに走らせるであろうに。このような殿方に果たして斯様な命を下そうか……?)
「お方様が御殿にてお待ちなのだ、早う見繕ってはくれぬか」
(全く、こうしている間に城の者が殿の死に気付いたら何とするのだ!)
 若干苛立ちを見せた吉住に店主は頭を下げた。
「失礼いたしました。では、こちらの吉丁(よしちょう)など如何でございましょう? なかなか上等な鼈甲(べっこう)で飾り彫りも入ってございます。お殿様の奥方様には丁度良いかと」
 正直なところ、素材も細工も吉住にはどうでも良い。
 ただ、店主の「奥方様には丁度良い」の一言で吉住はそれに決める。
「では、それを戴こう」
「毎度」
 店主は簪を布にくるみながら
「ところでお武家様、店の台帳には何とお名前を記しておけばよいでしょう? お伺いしてもよろしいでしょうか?」
 とにこにこと吉住に問い掛けた。
 簪を一刻も早く手に入れたい吉住は、口八丁手八丁でやり過ごす余裕もなく適当な偽名を名乗る。
「私は大久保と申す」
「大久保様でございますか。この度は毎度ありがとうございました。どうぞ、お方様にもよろしくお伝え下さいませ。今後ともご贔屓に」
 店主は相変わらずの営業スマイルで吉住に簪を渡し、代金を受け取った。

 城に戻った吉住は、真っ直ぐ台所に向かう。
 ちょうど夕餉の刻限だったからだ。
 案の定、鬼頭の分の夕餉が仕上がり女中が運ぶところだった。
 吉住は、
「殿はまだ寝ておられるやもしれん故、私も共に参ろう」
 ともっともらしい理由を付けて女中と共に鬼頭の部屋に行く。
「殿、お目覚めでございますか。夕餉をお持ちいたしました」
 そして、何食わぬ顔でそう言って襖を開ければ……。
「ひいぃっ!」
 畳を血に染め倒れる鬼頭を見て女中は悲鳴を上げながら膳をひっくり返した。
 吉住は
「殿、如何されました! 殿!」
 と鬼頭の死体に駆け寄り、女中の目を盗んで買ってきたばかりの簪を落とす。
 女中は完全に動転しており吉住の挙動に全く気付かない。
「目付を呼べ!」
 吉住が女中に厳しく言い放つと、女中は弾かれたように部屋を出ていき、やがて吉住の下で働く目付を二人連れてきた。
 目付と共に鬼頭の死体を検分していると、程なくして若い目付が鬼頭の死体の側に落ちている簪を発見する。
「ご家老様、これは……」
 吉住は内心してやったりとほくそ笑んだ。
「何と、これはお方様の簪ではないか……! 急ぎお方様に事の次第を確かめねば」
 やがて幹子の姿が城内にないと分かると、目付らは完全に吉住の思惑にはまり幹子を鬼頭貞臣殺しの下手人と信じ込む。
 吉住と目付らは後に幹子を朝永藩主殺しの下手人として奉行に届け出た上に幕府に報告、こうして紘子こと八束幹子は藩主殺しの濡れ衣を着せられたのだった。
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