第97話 生きる糧、生かす糧・弐

文字数 4,140文字

「思い違い……ですか?」
(何だろうか……そもそもおなごの私が売られたおなごを買い戻すなどできはしないということだろうか? 吉原はおなごが客として大門をくぐることは許されていないと聞く。仮にそうした所にたきがいるとすれば、私はあの子を探しに岡場所を回ることさえできない。吉原でなくても、ただのおなごが出入りしてたきのことを尋ねるなどできはしない。従重様はそう仰りたいのだろうか……?)
「さすがのお前でも分からぬか。無理もない、お前は『与えられて当たり前』の中で育ったのであろう故な」
 何を思い違えているか見当の付かない様子の紘子にそう言って、従重は足を止めた。そして、掴んでいた紘子の腕をゆっくりと引き、己の方を向かせる。
「たきを救いたくば、お前が信条としているものを一つ捨てねばならぬ。良いか、学問は全ての者がたとえ等しく求めることを許されても、等しく与えられてよいものではない。真に強く欲する者のみに与えられて然るべき。学びを欲する者から金を取れ。お前ほどの才ならば、相応の額を求めても文句は言われぬ」
「それはできません!」
 紘子は即座に拒否を口にした。長屋には筆も墨も買えない貧しい子が何人もいた。厳しい身分制の時世、そうした子の暮らし向きが読み書きで変わることなど期待はできなくとも、何人にも奪われないものがあるだけで心の支えになる、生きる糧になる……そう信じて学問を教えてきた紘子には、その子たちの親に金子を求めることなど到底考えられない。
「ならば今のお前にたきを身請けする金など一生かかっても用立てられぬぞ」
「……」
 紘子は唇を噛んで俯き、従重はそんな紘子の頭上から静かに声を降らす。
「……紘子、俺は皆から等しく金を取れと言うておるのではない。たきのように、貧しくとも才あり貪欲に学ぶ者は褒美として金子を免除すればいい。ただ流されるがままに学問を授けられているだけの子から相応の金を取るのだ。そうした者にとっては、学問など道楽に過ぎん。ただで道楽に興じる者はおらぬであろう。道楽には金を費やすのが当たり前というものだ。学問にも価値はある。身につけ、己のため家族のため世の中のために役立てんとする者にこそ存分に与えられ、そうした気概を持たぬ者にまで同等に与えて良いものではない。等しく与えれば、学問の価値が下がる……そうは思わぬか」
「それは……」
(……その通りかもしれない。私は、当然の如く両親から学問を授かってきた故に、与えられることが当たり前と思っていた。私は学問が好きだったが、もしもそうでなかったらあれだけ多くのことを教わってもろくに身につかなかっただろう。身につかないと分かっていて差し出すのと、いくらでも欲しがり飲み込んでいくと知って差し出すのとでは、その重みはまるで違う)
 そこまでの考えに至った紘子が恐る恐る顔を上げると、従重はそれを待ちわびていたかのように微笑んで見せた。
「市井で遊び歩いていたからこそ見えたものだが、金というものは有る所には有る。道楽に金を溶かす者も相応におる。そうした者たちから上手く巻き上げれば、童の一人や二人容易く買えよう。帰ったら兄上と相談するが良い。兄上は俺以上にしたたかだ、俺では思いもつかぬようなことを言い出すやもしれぬぞ」

 ……従重の言葉は事実となる。
「長屋に顔を出しに行っただけかと思えば……よもや学問を商いにしようと言い出すとはな」
 夕刻、用事を終えて帰参した重実は、紘子と従重の話に腕を組みくつくつと笑いを漏らした。
「欲する者には等しく、そうでない者には見返りを求める……か。成程、一理ある。俺としても、ひろをいつまでも城の奥に閉じ込めておくつもりは毛頭なかった故、渡りに舟とでも言ったところだが」
「渡りに舟とは……?」
 紘子が問うと、重実はニヤリと口端を上げた。
「お前のような才の持ち主を籠の鳥にしても何一つ峰澤の利にはならん。ひろの様子が落ち着いたところで、城の空き部屋を藩校にし、お前を師として据えようと考えていた。お前が毎日ここと長屋を往復するのは難儀だろう故な。無論、お前には給金を払うし、精勤の者には従重の言う『褒美』を用意していいだろう。だが、それを行うにも金が要る。うだつの上がらない者の親には相応の額を払ってもらいつつ、全ての者に『出資』を募るか」
「しかし、学問の費用のみならず出資まで募るのは少々やり過ぎではありませんか?」
 心配する紘子を前に、重実は余裕顔だ。
「なに、少額でひろの手製平包みが手に入るとなれば出資する者も出てくるさ」
「……はい? 今、何と……?」
 心配から困惑に瞬時に変わる紘子の心情は、不自然に歪められた彼女の眉が物語っていた。
「藩校の営みにこちらが定める額を出資した者には、平包みを一枚くれてやるんだ。書物や筆記具を持ち運ぶのに使えとな。その平包みを、ひろが縫うんだよ。お前の布選びの眼力や裁縫の腕前はなかなかだ。平包みに道具を包んで藩校に通う者が市井をうろつくようになれば、やがては藩校に入らずともお前の平包み欲しさに望んで金を出す者も出てくるやもしれん。ただし、平包みは行商人の稼ぎでも容易く手を出せる程度の安価でなければならん。峰澤は所詮一万石の領国だ、多少裕福な者もおるにはおるが、江戸や堺にいるような豪商はおらんし、百姓とて広大な田畑を持つ者はおらん。ここで金を得るには、欲を張って値をつり上げるよりも極力値を抑えて多くの者に買わせる方が利口なんだ」
「は、はあ……」
 呆然とする紘子に、傍らの従重が軽い嘆息混じりに言う。
「言うたであろう? 兄上は俺など及ばぬほどしたたかだと。民の目を欺き浪人気取りで市井を歩き回っていただけあるであろう?」
「おい従重、随分と突っかかった物言いじゃないか。俺に喧嘩でも売っているのか? お前からの喧嘩ならいくらでも買ってやるぞ?」
 冗談ともつかぬ弟の言動に兄はじとりと目を細めたが、弟は先ほどの兄そっくりにニヤリと薄笑った。
「ほう、それは随分景気の良い話で。何で勝負を着けますか? 剣と相撲と和算以外であれば、双六でもかるたでも何でも乗りましょう。ああ、酒の飲み比べでも構いませぬが」
「俺の勝てんものばかり並べやがって!」
 終いには互いに吹き出す兄弟を前に、紘子まで小さく笑い声をこぼす。
(重実様も従重様も既にご両親を亡くし、血の繋がった肉親はお互いのみ。お二人にとって、こうして笑い合って過ごせることはどれほど尊いものか……)
 こんな日々が末永く続けばいいと、紘子は心から願った。

 ――江戸城。
 峰澤で笑顔を交わす三人とは裏腹に、田辺親房は上役たる老中松平伊豆守信綱の前で蒼白な顔を晒していた。
「伊豆守様、それは……真にございますか」
「我が虚偽妄言を口にしていると?」
「いいえ、そのようなことは断じて――!」
 親房は平服したまま声を震わせる。
「しかしながら……八束家は既に取り潰され、秀郷殿の忘れ形見たる幹子殿にも御家再興の意思はございません。幹子殿によれば、秀郷殿の代で公家衆との繋がりは無くなったも同然と……」
「お主はそれを真に受けておるのか?」
「……と、仰りますのは……?」
 親房が恐る恐る頭を上げると、生真面目と評判の伊豆守は届いた文を手に開いたまま厳然たる表情を崩さず告げた。
「今や禁中のみならず公家衆は武家の力なくしては明日の飯もままならぬ。帝も我らのやり方を快くはお考えでない。故に、頭の中では如何に我らを利用し、出し抜くかを常に考えておる。斯様な者たちにとり、我らに名の通る八束の家柄は消えては困る拠り所なのだ。加えて、我らもまた先の由井正雪らによる謀反といい、将軍となられたばかりのお若い上様のお足元は盤石とは言えぬ状況。ここで公家衆に余計な面倒でも起こされようものなら我らの屋台骨は崩れかねぬ。故に公家衆の間で知られておる八束の名をちらつかせることであの者らを牽制する必要があるのだ」
「恐れながら……公家衆もご公儀も、秀郷殿の生前のお働き云々ではなく八束の『名』を欲しているということでしょうか」
 か細い口調で尋ねる部下の心中など、伊豆守には知る由もない。この男は今更何を問うているのかと、かえって首を傾げる始末だ。しかし、生真面目な伊豆守は問われたことに真摯に答える。
「左様。とはいえ、秀郷の名に意味がないとまでは言わぬ。秀郷の働きは天晴れなものであった。たとえ幹子が秀郷の築いた方々(ほうぼう)との繋がりを引き継いでおらぬとしても、『秀郷の娘』という冠が付けば話は違う。秀郷を知る者たちは、かの者の娘と知れば幹子に信を置き頼りとするであろう……相手によっては幹子を利用しようとするやもしれぬが、公儀に仇をなしかねぬそうした悪しき者たちを誘き寄せるにもちょうど良い。此度、其方の働きにより八束家の正当なる血を引く幹子の存命が明らかとなった。八束の家柄、その名の持つ重みを考えれば、御家を存続させるは必定。そして、八束家は公家衆に掠め取られる前に我ら徳川側が握るべき。尾張公の遠縁に当たる家の三男が、ちょうど幹子と年も近く八束家婿養子として適任――と、尾張より文が届いた。この旨、幹子の身許を引き受けている峰澤清平家に伝え、婚礼の支度を進めさせよ」
(尾張の縁者と幹子殿の婚姻だと……!? それでは重実と幹子いや紘子殿が……) 
「恐れながら……っ」
 親房は食い下がった。
「幹子殿はかつて、幕命を受けた我が父佐野武貫の働きかけにより旧朝永鬼頭家に輿入れしたことがきっかけで、鬼頭殿殺害の濡れ衣を着せられる憂き目に遭っております。最も重き咎は我が父にありますのはもちろんのことでございますが、公儀の失策により幹子殿を危うく死なせるところであった上に秀郷殿とその奥方を死に追いやり、八束家取り潰しに至ってしまったことは紛れもなき事実。これほどの所業を働きながら尾張の縁者を迎え御家を再興せよとは、あまりに無体なことでは……」
「口を慎め」
「――っ」
 震える唇を真一文字に結ぶ親房に、伊豆守の声が静かに刺さる。
「我らは幕臣ぞ。我らの務めは徳川家に忠義を誓い、その治世を守ること。路傍の石に等しい娘一人の人生など、知ったことではない」
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