第28話 迫る影・弐

文字数 2,010文字

 従重に本音をぶつけられたあの朝から数日後の晩、重実は「重之介」の姿で木戸屋にいた。
 個室ではない板張りの広間で多くの客に紛れて夕餉の膳をつつく。
 その対面には、どういうわけか町人に扮した忠三郎も座って箸を動かしていた。
「と……あ、重之介殿」
 うっかりいつものように重実を「殿」と呼んでしまいそうになるのを堪えて、忠三郎は続ける。
「いくら田邉殿からの命だからといって、何もここまでなさらずとも……」
 すると、重之介は漬け物を齧りながら
「この辺りじゃ、ここが一番情報を取れる」
 と返し、忠三郎に「もっと近付け」と言わんばかりに手招きした。
「江戸の様子は、一緒に行ったお前も知っているだろう?」
 重実は声をひそめる。
「田邉殿が懸念されるのも無理はない、あれだけ浪人がうろうろしていればな。ただ、相手は江戸城を抱えるご公儀だ。仮に賊が本気で事を起こそうとするならば、機が熟すまで財と兵力を蓄えようとする筈だ。しかし、市中は奉行所の者に加え見廻役が四六時中巡っていていつ引っ捕らえられるか分かったものじゃない。そうなると、奴らが潜むのは必然的に……」
「……江戸近隣の国々、となりますな」
「そうだ、ここ峰澤のような……な。『火のない所に煙は立たぬ』、田邉殿があのような噂を耳にしているという事は、既にどこぞで動き始めている輩がいると考えた方がいい。この峰澤で、好き勝手に謀反の企てなどさせてたまるか」
 重実は目だけで室内を探りながら汁椀に手を伸ばした。
「お役目に励まれるのは結構ですが……重之介殿」
 忠三郎は気遣わしげな視線を重実に向ける。
「あのおなごが見えなくなってから、少々根を詰め過ぎてはいらっしゃいませんか?何があったかは存じませんが、向こうはいつの間にか長屋に戻っている様子。いつもの重之介殿であれば、顔のひとつも容易く出して城を飛び出した理由も気軽に訊けましょうに。そうされないのは何故でございますか?」
「……」
 途端に重実の威勢が削がれた。
 
 子供の頃から、剣術ではたとえひと回り体の大きい武士が相手だろうと後退った事はなかった。
 勝てぬ勝負と分かっていても、勝てるまで何度となく挑んだ。
 読めぬ書物は読めるようになるまで食い下がり、解けぬ算術は解けるまで夜を明かしてもそろばんを弾いた。
 清平家の嫡男として、重実は「逃げない強さ」を身に付けていたつもりだった。
 だが……。
(あの日、俺は立ち向かえなかった……従重にも、ひろが抱える闇にも。認めたくはないが、俺は負けたんだ……従重に)
 無意識のうちに、従重よりも何か抜きん出たものを本能的に求めているのだろう、あれから重実は本人でさえ上手く説明出来ない仕事欲に駆られるようになった。
 そして、仕事にのめり込んでいる間だけは、敗北の屈辱も紘子の事も考えずに済んだ。

 重実は、着物の上から懐にしまってある柘植櫛に触れる。
(俺は、結局のところどうしたいんだろうな……)
 今は行き場をなくした柘植櫛がいつか紘子の手に渡る日が来るのだろうか、それとも……。
 重実は忠三郎に目を合わせられぬまま答える。
「……見つからないんだよ、答えが」

 重実が広間で秘かに睨みを利かせていた頃、二階の部屋ではこの日も大久保が連れと酒を酌み交わしていた。
 そこはかとなく隙のない雰囲気を醸し出す男が、大久保の傍で囁く。
「先日の男ですが……」
 大久保の眉がぴくりと動いた。
「何か収穫はあったかね?」
 男はひとつ頷きを返して続ける。
「あの後この近くの長屋に足を運んでおりました。女との逢瀬だったようです。中の様子は分かりませんでしたが、女は男を『よりしげ様』と呼んでおりました。男は大して長居もせず長屋を出て、峰澤の城に入っていきました」
「よりしげ、城……ふむ」
 大久保の薄い唇が弧を描いた。
「……これは、とんだ大物が釣れるかもしれないな」
「それと、相手の女ですが……」
 男の眼光が冷える。
「長屋の中から聞こえた男との会話で女の名が『ひろこ』であろうという事が分かりましたが……あの声には、聞き覚えがあります」
 大久保の双眸に殺気めいたものが漂い始めた。
「……ほう?詳しく話せ」
「女の割には低い声で、そうありふれた声色ではありません。『あのお方』の声で間違いないのではないかと。昼間、町人にそれとなく尋ねたところ、ひろこという女は元々この地の者ではなく、ここ二年以内のうちにどこからともなく流れてきたようで……」
 そこまで聞くと、大久保はくつくつと喉の奥で笑う。
「くくっ、『棚から牡丹餅』とはよく言ったものだな……」
「如何しますか?吉住(よしずみ)様」
 「吉住」と呼ばれた大久保は怜悧に笑んで
「今はまだその時ではない。暫し泳がせておけ」
 と命じると、顎をさすりながらその笑みを深めた。
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